投稿

安重根が夢見ていたものとは。 ハルビン駅にある「安重根義士記念館」

イメージ
  歴史的な事象は、みる立場によって異なると言われます。特にこの人はそうです。換言すれば、それだけ後世に刻まれる大事を成し遂げたと言えるでしょう。  1909年10月26日午前9時半ごろ、現中国黒竜江省のハルビン駅で専用列車から降りてきた伊藤博文が暗殺されます。    ハルビンはロシアが中国の清王朝から敷設権を得た東清鉄道の拠点であり、ハルビン駅等はロシアの管轄下にありました。伊藤博文は当時、日本の枢密院議長で、そのしばらく前まで日本の朝鮮支配の拠点である韓国統監府のトップ、韓国統監を勤めていました。    銃弾を撃ったのは安重根(アン・ジュングン、1879~1910)です。    韓国や北朝鮮、中国から見れば、正義にのっとって「義挙」を成し遂げた朝鮮の独立運動家です。安重根のハルビンでの足跡やその後の顚末等を紹介する「安重根義士記念館」が、現在のハルビン駅の駅舎の一角にあります。       記念館は2014年1月に開館しました。韓国の朴槿恵大統領と中国の習近平国家主席の首脳会談で設置が決まりました。その際に、日本の安倍政権の菅義偉官房長官は、安重根のことを「犯罪者」「テロリスト」と公の場で語り、韓国の人々の反発を買いました。    なぜ暗殺事件が起きたのか、その歴史的背景を理解していれば、発言が隣国でどう受けとめられるかは容易に想像できたでしょう。日本の有力政治家の歴史認識の浅さを如実に示した出来事でもありました。    筆者は2025年8月下旬、ハルビンを初めて訪れた際にこの記念館を訪ねました。中韓関係の悪化などで一時期閉鎖されていたとの事前情報があり、心配しましたが、無事開館していました。無料で入場できますが、パスポートが必要です。     入り口から入ると、正面に安重根の銅像が建っています。  館内を進むと、いちばん奥の階段を数段上がった空間から、ガラス越しにハルビン駅の構内がのぞけます。安重根が伊藤博文を暗殺した現場です。プラットホームにある「北斗七星」のロゴが刻まれた三角形が、安重根が立っていた場所で、正方形は伊藤博文がたおれた位置を示しているとのことです。  日本は明治時代、日清戦争、日露戦争を経て朝鮮での権益を拡大します。末期となる朝鮮王朝は当時、「大韓帝国」と称...

「悪魔」の足跡は消せない! ハルビン郊外の「731部隊罪証陳列館」

イメージ
    戦後80年を迎えた今夏、筆者は中国黒竜江省の省都ハルビンに向かいました。別の目的があって初めて、北緯45度の北の地を訪ねたのですが、その合間にどうしても足を運びたかったのが郊外にあるこの場所でした。    「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」     かつて中国東北部には「満州国」という傀儡国家があり、日本軍が実権を掌握していました。  ハルビンの郊外の原野に広大な拠点施設を築いた 旧日本軍の「731部隊(細菌戦秘密研究所)」 は、 「抗日運動」に関与したとして捕らえた中国人や朝鮮人、ロシア人の捕虜らを対象に、人道に反する生体実験や生体解剖を繰り返していました。  命を奪われた被害者は数千人にのぼるとされています。妊婦を胎児ごと生体解剖したという元隊員の証言もあります。思わず吐き気を催してしまいます。  この陳列館は、悪名高き731部隊の残虐非道な悪行の数々を歴史として記録し、人類が二度とこのような非人道的行為を繰り返さぬよう、後世に伝えるために中国政府が建立したものです。かつての部隊本部の建物等が保存され、 「全国重点保護文化財」として旧日本軍の蛮行を伝える拠点になっています。     戦争末期、ソ連の参戦に慌てた731部隊の隊長、石井四郎軍医中将は、飛行機に乗ってそそくさと日本へ逃亡しました。非人道的な悪行の数々がソ連にばれたら、さすがにまずいと思ったのでしょう。部隊の施設や実験機器の爆破、記録書類の焼却処分等を部下らに命じ、幹部らはさっさと「犯行現場」を離れます。現場に責任を押しつけて幹部は保身を最優先する、戦後も変わらない、日本の組織の典型例を見るかのようです。しかし、ソ連軍が侵攻して来るまでの限られた時間で証拠のすべてを灰燼に帰すことはできず、悪行の痕跡の数々が現地に残されていました。    部隊員の一部はソ連軍にとらえられ、戦後、ハバロフスクで戦犯として軍事裁判を受けました。731部隊が手をかけた非道な蛮行に関する証言は裁判記録として残り、見つかった音源等をもとにNHKが特集番組(『731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~』(2017年度)をつくりました。深く印象に残る番組でした。森村誠一氏の「悪魔の飽食」をはじめ元部隊員らの取材に基づく刊行物もあります。 筆者が初めて731部隊の存在を知ったのは、1...

釜山の名物麺 避難民の郷愁が染み込んだ味

イメージ
   埠頭をびっしりとコンテナが埋めています。世界屈指のコンテナ取扱量を誇る韓国の釜山港。その北東部の一角の海沿いから少し坂を上がった所に、牛岩洞(ウアムドン)と呼ばれる集落があります。      日本の植民地支配期、日本に売られていく牛がいったん集められたといい、当時は牛舎が立ち並んでいたようです。 朝鮮戦争(1950~53)のさなか、そんな元は牛舎だった粗末な建物で、朝鮮半島北部(北朝鮮)から船で着の身着のまま逃げてきた避難民が雨露をしのぎました。当時、釜山のあちこちの山の傾斜地には、北からの避難民が肩を寄せて暮らすバラックの集落ができたのです。 いつの日か北の故郷に帰れるだろうと願っていた避難民ですが、戦争は長引き、帰郷の日は遠のきます。避難民は致し方なく、釜山に腰を落ち着けることにし、生活の基盤となるなりわいをさがします。 1953年3月、牛岩洞の一角に開業した「内湖冷麺(ネホ・ネンミョン)」もそんな避難民が構えた素朴なお店です。 1950年6月に始まった朝鮮戦争では当初、南へと快進撃を続けた北朝鮮軍が朝鮮半島の南東部を流れる洛東江に囲まれた地域を除き、南北朝鮮のほとんどを占領しました。李承晩(イ・スンマン)大統領がソウルから逃げて来て臨時首都が置かれた釜山が陥落すれば、南北朝鮮は「赤色統一」される寸前でした。 しかし、同じ年の9月、国連軍と韓国軍が敢行した仁川上陸作戦で形勢は一転。今度は韓国軍側が北へと攻め入り、一部の部隊は中朝国境にも達します。すると、10月に中国(義勇)軍が北朝鮮の支援のために本格参戦します。中国軍の人海戦術と日に日に厳しさを増す冬の寒さで、韓国軍と国連軍は死傷者が相次ぎ、撤退を余儀なくされます。 1950年12月から51年1月にかけて、国連軍の中核をなす米軍は、東海(日本海)側の港まち、興南(フンナム)に艦艇を集めて大規模な撤退作戦を展開。その際、軍用船に大勢の民間の避難民ものせ、朝鮮半島の南東端の釜山や巨済島(コジェド)へと移送しました。最後の撤退時に米軍は、北朝鮮軍や中国軍が港を使えないようにするため、埠頭を爆破します。故郷のまちに爆炎が立ちのぼる様子を、避難船に乗った人々はどんな思いで見たのでしょうか。 無事、戦火からは遠い釜山へとたどり着いたとはい...

金大中。死の瀬戸際を5度も生き抜いた不屈の偉人

イメージ
  「金大中」 1970~80年代に幼少期を過ごした筆者にとって「韓国人」と言って頭に思い浮かぶ人物のひとりが、この人でした。日本のテレビのアナウンサーはまだ日本式の音読みで「きん・だいちゅう」と呼んでいた記憶があります。ちなみにもう一人は、韓国の元首として初めて日本を訪れた「テモリ(禿げ頭)」の大統領です。 いまの日本の少年少女であれば、「韓国人」と言えば、BTSのメンバーをはじめ、K―POPのスターの名前がすらすらと出てくるのでしょう。それだけ当時の日本で流れる韓国に関する情報は、今と比べても極端に少なく、偏ったものでした。 韓国南西端の港町、木浦(モッポ)を今冬に訪れた際、旧市街地から港沿いに歩いていける三鶴島(サマクド)にある「金大中ノーベル平和賞記念館」を訪れました。 金大中は大統領任期中の2000年6月、朝鮮の南北分断後、初めてとなる首脳会談を実現し、融和ムードを高め、民間交流や経済協力事業を推進しました。北東アジア地域の緊張緩和をもたらし、国際平和に寄与したとしてその年の12月、ノーベル平和賞を受賞します。 記念館は民主主義と人権、平和という人類普遍の価値を守るために生涯を捧げた木浦が生んだ偉人の功績を後世に伝えるため、2013年に故郷の地に開館しました。観覧は無料です。展示コーナーのはじめに、金色に輝くノーベル平和賞の受賞メダルが展示してあり、度肝を抜かれます。 ◇生誕100年 訪問時、建物の正面には生前の写真とともに「金大中 100年」と大きく記した横断幕がかかっていました。2024年は生誕からちょうど100年にあたる記念の年で、関連イベントもあるようです。 日本が朝鮮を植民地支配していた1924年1月6日、金大中は木浦沖に浮かぶ荷衣島で生まれます。島の公立普通学校(小学校)では成績優秀で、上級学校に進学させたいという親の期待も受けて12歳の時、家族で木浦の市街地に引っ越し、木浦公立商業学校で学びます。 太平洋戦争中の戦時特別措置で卒業が繰り上げられ、20歳の時、全南汽船会社に入社し、経理職員として働き始めたのが社会人としての第一歩でした。 21歳だった1945年8月15日、日本の植民地支配が終焉を迎えます。朝鮮独立運動家の呂運亨(ヨ・ウニョン)率いる「建国準備委員会」の地域組織に参加したのが、長い政治活動の...

戦争が全くなかった250余年 「韓流」使節団が寄港した港町

イメージ
      陽光に照らされてキラキラと輝く海面。波は穏やかで、なだらかな形の島々が水平線上に浮かんでいます。地元の観光地である「オリーブ園」の看板が、温暖な気候の地であることを示しています。       瀬戸内海に面した港町、岡山県瀬戸内市の牛窓(うしまど)。「日本のエーゲ海」とも称する港町は古くから「風待ち、潮待ち」の港町として栄えました。港の海岸線に沿って「しおまち唐琴(からこと)通り」と呼ばれる通りがあります。道幅が江戸時代のままという古い通りの両脇には、白壁の土蔵や格子戸のある木造家屋が立ち並んでいます。          牛窓は江戸時代に、朝鮮王朝からの外交使節団「朝鮮通信使」が寄港、上陸した港町で、使節団を代表する三使(正使、副使、従事官)が宿に利用したという本蓮寺や御茶屋跡が残っています。    海に面した「牛窓海遊文化館」(入場料300円)の展示を通して、牛窓と朝鮮通信使のつながりを学ぶことができます。    16世紀末、日本は朝鮮に侵略しました。天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、何を血迷ったのか中国の明王朝の征服を思いつき、朝鮮王朝にその「道案内」をするよう要求します。朝鮮は明と朝貢関係にあり、当然ながら拒否します。すると、秀吉は加藤清正や小西行長といった家臣の武将らを朝鮮へと侵攻させます。日本で「文禄・慶長の役」(1592~98)、朝鮮で「壬辰・丁酉倭乱」と呼ばれる無謀な朝鮮侵略戦争は、秀吉の死とともに終わりました。   その後、日本では関ケ原の戦いや大阪城をめぐる冬夏の陣を経て、徳川政権が樹立します。江戸時代のはじまりです。   海を越えて侵略してきた隣国を、統治者が変わったからといって果たして信用していいものかどうか。朝鮮王朝が警戒したのも当然でしょう。秀吉軍の朝鮮侵略時に義挙した僧兵らを指揮して戦った松雲大師(四溟堂、サミョンダン)を、朝鮮王は徳川新政権との交渉役として派遣します。対馬滞在を経て京都に至った大師は1605年、伏見城で徳川家康と面会し、新政権には朝鮮侵略の意図がないことを確認しました。そもそも家康は秀吉の命令をうまくかわして、自軍を朝鮮に派...

木浦。すみっこの港町に宿る歴史

イメージ
    朝、港沿いの市場を歩くと、名物のエイや太刀魚(カルチ)など、竿につるされた干し魚が店頭に並んでいます。漁船がびっしりと並ぶ港にはフェリーターミナルもあり、周辺の島と結ぶ定期船が汽笛を鳴らしながら港に出入りしています。   韓国の南西部、全羅南道のそのまた南西端のすみっこにある港町、木浦(モッポ)を今冬に訪れました。釜山からは高速バスを光州で乗り継げば、合わせて4~5時間でたどり着くことができます。   漁港の周辺の市街地をぶらぶら散策すると、近代建築のような古い建物が少なくなく、長い歴史を積み重ねた港であることを実感します。大阪の淀屋橋周辺で目にするような大正期のレンガ造りの建物や、昭和期の瓦屋根の家屋をほうふつとさせる建築物をあちこちで目にします。ただ、過疎化の影響か、空き家となり、壁がはがれていたり、屋根の一部が崩れたりしている建物も少なくありません。         木浦には、日本の植民地支配期にここに移り住んだ日本人が暮らしたとみられる家屋があちこちにありました。韓国では、大日本帝国という怨念の「敵」が残した遺物という意味を含んでいるのか、「敵産家屋」と呼ばれています。「日帝の残滓(ざんし)」という呼ばれ方もします。韓国の経済紙「ヘラルド経済」のネット版の記事( https://news.heraldcorp.com/view.php?ud=20231016000805 )では、木浦は今なお残っている敵産家屋が韓国の中でも断トツで多い町と紹介されています。 日韓併合から5年目の1914年に約1万2千人だった木浦の人口は、太平洋戦争中の1943年時点では計7万2981人と約30年で6倍に急増し、このうち8279人が日本人だったという統計記録が残っています。 植民地朝鮮に最大時で約75万人いたと言われる日本人は、1945年8月15日の日本の敗戦による「解放」で追われる身となり、日本への引き揚げを余儀なくされました。政治の支配構造に便乗して経済活動で蓄財を果たした日本人の中には、築いた「富」を巧妙に日本へ持ち帰った人もいたでしょう。ですが、さすがに不動産までは持ち帰ることはできませんでした。 主のいなくなった建物や家屋は韓国の新たな「所有者」の手に渡り、住居や商店...