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釜山の名物麺 避難民の郷愁が染み込んだ味

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   埠頭をびっしりとコンテナが埋めています。世界屈指のコンテナ取扱量を誇る韓国の釜山港。その北東部の一角の海沿いから少し坂を上がった所に、牛岩洞(ウアムドン)と呼ばれる集落があります。      日本の植民地支配期、日本に売られていく牛がいったん集められたといい、当時は牛舎が立ち並んでいたようです。 朝鮮戦争(1950~53)のさなか、そんな元は牛舎だった粗末な建物で、朝鮮半島北部(北朝鮮)から船で着の身着のまま逃げてきた避難民が雨露をしのぎました。当時、釜山のあちこちの山の傾斜地には、北からの避難民が肩を寄せて暮らすバラックの集落ができたのです。 いつの日か北の故郷に帰れるだろうと願っていた避難民ですが、戦争は長引き、帰郷の日は遠のきます。避難民は致し方なく、釜山に腰を落ち着けることにし、生活の基盤となるなりわいをさがします。 1953年3月、牛岩洞の一角に開業した「内湖冷麺(ネホ・ネンミョン)」もそんな避難民が構えた素朴なお店です。 1950年6月に始まった朝鮮戦争では当初、南へと快進撃を続けた北朝鮮軍が朝鮮半島の南東部を流れる洛東江に囲まれた地域を除き、南北朝鮮のほとんどを占領しました。李承晩(イ・スンマン)大統領がソウルから逃げて来て臨時首都が置かれた釜山が陥落すれば、南北朝鮮は「赤色統一」される寸前でした。 しかし、同じ年の9月、国連軍と韓国軍が敢行した仁川上陸作戦で形勢は一転。今度は韓国軍側が北へと攻め入り、一部の部隊は中朝国境にも達します。すると、10月に中国(義勇)軍が北朝鮮の支援のために本格参戦します。中国軍の人海戦術と日に日に厳しさを増す冬の寒さで、韓国軍と国連軍は死傷者が相次ぎ、撤退を余儀なくされます。 1950年12月から51年1月にかけて、国連軍の中核をなす米軍は、東海(日本海)側の港まち、興南(フンナム)に艦艇を集めて大規模な撤退作戦を展開。その際、軍用船に大勢の民間の避難民ものせ、朝鮮半島の南東端の釜山や巨済島(コジェド)へと移送しました。最後の撤退時に米軍は、北朝鮮軍や中国軍が港を使えないようにするため、埠頭を爆破します。故郷のまちに爆炎が立ちのぼる様子を、避難船に乗った人々はどんな思いで見たのでしょうか。 無事、戦火からは遠い釜山へとたどり着いたとはいえ、やはり故郷への思いは断ち切れません。牛岩洞に

金大中。死の瀬戸際を5度も生き抜いた不屈の偉人

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  「金大中」 1970~80年代に幼少期を過ごした筆者にとって「韓国人」と言って頭に思い浮かぶ人物のひとりが、この人でした。日本のテレビのアナウンサーはまだ日本式の音読みで「きん・だいちゅう」と呼んでいた記憶があります。ちなみにもう一人は、韓国の元首として初めて日本を訪れた「テモリ(禿げ頭)」の大統領です。 いまの日本の少年少女であれば、「韓国人」と言えば、BTSのメンバーをはじめ、K―POPのスターの名前がすらすらと出てくるのでしょう。それだけ当時の日本で流れる韓国に関する情報は、今と比べても極端に少なく、偏ったものでした。 韓国南西端の港町、木浦(モッポ)を今冬に訪れた際、旧市街地から港沿いに歩いていける三鶴島(サマクド)にある「金大中ノーベル平和賞記念館」を訪れました。 金大中は大統領任期中の2000年6月、朝鮮の南北分断後、初めてとなる首脳会談を実現し、融和ムードを高め、民間交流や経済協力事業を推進しました。北東アジア地域の緊張緩和をもたらし、国際平和に寄与したとしてその年の12月、ノーベル平和賞を受賞します。 記念館は民主主義と人権、平和という人類普遍の価値を守るために生涯を捧げた木浦が生んだ偉人の功績を後世に伝えるため、2013年に故郷の地に開館しました。観覧は無料です。展示コーナーのはじめに、金色に輝くノーベル平和賞の受賞メダルが展示してあり、度肝を抜かれます。 ◇生誕100年 訪問時、建物の正面には生前の写真とともに「金大中 100年」と大きく記した横断幕がかかっていました。2024年は生誕からちょうど100年にあたる記念の年で、関連イベントもあるようです。 日本が朝鮮を植民地支配していた1924年1月6日、金大中は木浦沖に浮かぶ荷衣島で生まれます。島の公立普通学校(小学校)では成績優秀で、上級学校に進学させたいという親の期待も受けて12歳の時、家族で木浦の市街地に引っ越し、木浦公立商業学校で学びます。 太平洋戦争中の戦時特別措置で卒業が繰り上げられ、20歳の時、全南汽船会社に入社し、経理職員として働き始めたのが社会人としての第一歩でした。 21歳だった1945年8月15日、日本の植民地支配が終焉を迎えます。朝鮮独立運動家の呂運亨(ヨ・ウニョン)率いる「建国準備委員会」の地域組織に参加したのが、長い政治活動の始まりで

戦争が全くなかった250余年 「韓流」使節団が寄港した港町

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      陽光に照らされてキラキラと輝く海面。波は穏やかで、なだらかな形の島々が水平線上に浮かんでいます。地元の観光地である「オリーブ園」の看板が、温暖な気候の地であることを示しています。       瀬戸内海に面した港町、岡山県瀬戸内市の牛窓(うしまど)。「日本のエーゲ海」とも称する港町は古くから「風待ち、潮待ち」の港町として栄えました。港の海岸線に沿って「しおまち唐琴(からこと)通り」と呼ばれる通りがあります。道幅が江戸時代のままという古い通りの両脇には、白壁の土蔵や格子戸のある木造家屋が立ち並んでいます。          牛窓は江戸時代に、朝鮮王朝からの外交使節団「朝鮮通信使」が寄港、上陸した港町で、使節団を代表する三使(正使、副使、従事官)が宿に利用したという本蓮寺や御茶屋跡が残っています。    海に面した「牛窓海遊文化館」(入場料300円)の展示を通して、牛窓と朝鮮通信使のつながりを学ぶことができます。    16世紀末、日本は朝鮮に侵略しました。天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、何を血迷ったのか中国の明王朝の征服を思いつき、朝鮮王朝にその「道案内」をするよう要求します。朝鮮は明と朝貢関係にあり、当然ながら拒否します。すると、秀吉は加藤清正や小西行長といった家臣の武将らを朝鮮へと侵攻させます。日本で「文禄・慶長の役」(1592~98)、朝鮮で「壬辰・丁酉倭乱」と呼ばれる無謀な朝鮮侵略戦争は、秀吉の死とともに終わりました。   その後、日本では関ケ原の戦いや大阪城をめぐる冬夏の陣を経て、徳川政権が樹立します。江戸時代のはじまりです。   海を越えて侵略してきた隣国を、統治者が変わったからといって果たして信用していいものかどうか。朝鮮王朝が警戒したのも当然でしょう。秀吉軍の朝鮮侵略時に義挙した僧兵らを指揮して戦った松雲大師(四溟堂、サミョンダン)を、朝鮮王は徳川新政権との交渉役として派遣します。対馬滞在を経て京都に至った大師は1605年、伏見城で徳川家康と面会し、新政権には朝鮮侵略の意図がないことを確認しました。そもそも家康は秀吉の命令をうまくかわして、自軍を朝鮮に派兵しませんでした。無謀な戦争だと気付いていたのでしょう。   2年後の1607年、日本と朝鮮の国交の回復を掲げて第1回の通信使が漢城(ソウル)から江戸へと派遣されま

木浦。すみっこの港町に宿る歴史

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    朝、港沿いの市場を歩くと、名物のエイや太刀魚(カルチ)など、竿につるされた干し魚が店頭に並んでいます。漁船がびっしりと並ぶ港にはフェリーターミナルもあり、周辺の島と結ぶ定期船が汽笛を鳴らしながら港に出入りしています。   韓国の南西部、全羅南道のそのまた南西端のすみっこにある港町、木浦(モッポ)を今冬に訪れました。釜山からは高速バスを光州で乗り継げば、合わせて4~5時間でたどり着くことができます。   漁港の周辺の市街地をぶらぶら散策すると、近代建築のような古い建物が少なくなく、長い歴史を積み重ねた港であることを実感します。大阪の淀屋橋周辺で目にするような大正期のレンガ造りの建物や、昭和期の瓦屋根の家屋をほうふつとさせる建築物をあちこちで目にします。ただ、過疎化の影響か、空き家となり、壁がはがれていたり、屋根の一部が崩れたりしている建物も少なくありません。         木浦には、日本の植民地支配期にここに移り住んだ日本人が暮らしたとみられる家屋があちこちにありました。韓国では、大日本帝国という怨念の「敵」が残した遺物という意味を含んでいるのか、「敵産家屋」と呼ばれています。「日帝の残滓(ざんし)」という呼ばれ方もします。韓国の経済紙「ヘラルド経済」のネット版の記事( https://news.heraldcorp.com/view.php?ud=20231016000805 )では、木浦は今なお残っている敵産家屋が韓国の中でも断トツで多い町と紹介されています。 日韓併合から5年目の1914年に約1万2千人だった木浦の人口は、太平洋戦争中の1943年時点では計7万2981人と約30年で6倍に急増し、このうち8279人が日本人だったという統計記録が残っています。 植民地朝鮮に最大時で約75万人いたと言われる日本人は、1945年8月15日の日本の敗戦による「解放」で追われる身となり、日本への引き揚げを余儀なくされました。政治の支配構造に便乗して経済活動で蓄財を果たした日本人の中には、築いた「富」を巧妙に日本へ持ち帰った人もいたでしょう。ですが、さすがに不動産までは持ち帰ることはできませんでした。 主のいなくなった建物や家屋は韓国の新たな「所有者」の手に渡り、住居や商店、事業所として活用されたところもありました。しかし、「日帝の残滓」を敵視する人

韓牛とタコの「未知なる遭遇」 韓国の絶品の味を目指して。

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     カルビ肉のかたまりが入ったスープに「ナクチ」と呼ばれる手長ダコがまるごと1匹入っています。牛肉とタコ、両方のうまみがしみ出たスープを、唐辛子などの薬味が引き立てます。ただ、多くの韓国料理にあるような真っ赤な汁ではなく、スープは透明で食材の味をじっくりと味わうことができます。 「 갈낙탕 ( カルラクタン)」と呼ばれるスープ料理は想像以上の絶品でした。 牛肉とタコがひとつの器に。これまで目にした記憶のない食材の融合を味わいたいと、今冬、この料理の発祥地と言われる韓国南西部の全羅南道にある 霊岩郡(ヨンアムグン) 犢川 ( トクチョン ) という田舎町を訪ねました。 まずは、まちにたどり着かなければなりません。またいつか再び自力で行けるようにと、できるだけ公共交通機関を使って現地を目指すことにしました。    中継地として目標にしたのが韓国南西部の港町、木浦(モッポ)です。この町にいちばん近い務安空港に向かう関西空港からの直行便は、残念ながら旅の時点ではありませんでした。まずは関空からも便数が多い釜山(金海)空港を目指します。 午前11時関空発の飛行機に乗ると、海峡を越えてあっという間。お昼過ぎには金海空港のロビーに着きました。西日本と韓国の近さを改めて実感します。空港からは「釜山金海軽電鉄」というモノレールに乗り、3つ目の「沙上(ササン)」駅で下りて近くの釜山西部バスターミナルに向かいます。接続する地下鉄の駅を経由すれば、地下道経由でバスターミナルまで行けます。   午後2時前にはバスターミナルにたどり着き、当初計画していた午後2時発の木浦行き直行バスに「間に合った」と思ったのも束の間、予想外の展開が待っていました。なんと午後2時発を含め、その日にある木浦行きの直行バス3便はいずれも「 매진 (メジン)」との表示が出ていたのです。売り切れです。 予備の座席でも残ってないだろうかと窓口の従業員に確認したものの、やはり満席でした。すがるように「木浦へ行く方法はありませんか」とたずねたところ、「まずは光州に行って下さい」と助言されました。   釜山(西部)から光州行きのバスは毎時間のようにあり、売り切れということはありませんでした。14時40分発の光州行きのチケット(1人33700ウォン=プレミアム席バス、19900ウォンの一般席な