木浦。すみっこの港町に宿る歴史

 


  朝、港沿いの市場を歩くと、名物のエイや太刀魚(カルチ)など、竿につるされた干し魚が店頭に並んでいます。漁船がびっしりと並ぶ港にはフェリーターミナルもあり、周辺の島と結ぶ定期船が汽笛を鳴らしながら港に出入りしています。

 韓国の南西部、全羅南道のそのまた南西端のすみっこにある港町、木浦(モッポ)を今冬に訪れました。釜山からは高速バスを光州で乗り継げば、合わせて4~5時間でたどり着くことができます。

 漁港の周辺の市街地をぶらぶら散策すると、近代建築のような古い建物が少なくなく、長い歴史を積み重ねた港であることを実感します。大阪の淀屋橋周辺で目にするような大正期のレンガ造りの建物や、昭和期の瓦屋根の家屋をほうふつとさせる建築物をあちこちで目にします。ただ、過疎化の影響か、空き家となり、壁がはがれていたり、屋根の一部が崩れたりしている建物も少なくありません。

 

   



  木浦には、日本の植民地支配期にここに移り住んだ日本人が暮らしたとみられる家屋があちこちにありました。韓国では、大日本帝国という怨念の「敵」が残した遺物という意味を含んでいるのか、「敵産家屋」と呼ばれています。「日帝の残滓(ざんし)」という呼ばれ方もします。韓国の経済紙「ヘラルド経済」のネット版の記事(https://news.heraldcorp.com/view.php?ud=20231016000805)では、木浦は今なお残っている敵産家屋が韓国の中でも断トツで多い町と紹介されています。

日韓併合から5年目の1914年に約1万2千人だった木浦の人口は、太平洋戦争中の1943年時点では計7万2981人と約30年で6倍に急増し、このうち8279人が日本人だったという統計記録が残っています。

植民地朝鮮に最大時で約75万人いたと言われる日本人は、1945年8月15日の日本の敗戦による「解放」で追われる身となり、日本への引き揚げを余儀なくされました。政治の支配構造に便乗して経済活動で蓄財を果たした日本人の中には、築いた「富」を巧妙に日本へ持ち帰った人もいたでしょう。ですが、さすがに不動産までは持ち帰ることはできませんでした。

主のいなくなった建物や家屋は韓国の新たな「所有者」の手に渡り、住居や商店、事業所として活用されたところもありました。しかし、「日帝の残滓」を敵視する人も少なくなく、韓国の経済成長と開発が進むにつれて取り壊され、姿を消しました。

代表格はソウルの景福宮の敷地内にあった植民地統治の本拠ともいえる「朝鮮総督府」でしょう。日本支配の象徴である総督府庁舎は日本の敗戦による解放後、北緯38度以南を占領した米軍の軍政庁舎となり、日章旗の代わりに星条旗が翻ります。1948年8月15日の大韓民国建国後は、韓国政府庁舎となります。朝鮮戦争(1950~53)では一時、ソウルを占領した朝鮮民主主義人民共和国の国旗「人共旗」が掲げられました。

その後は韓国国立中央博物館として長年活用されました。ちなみに筆者は1988年、高校2年時の修学旅行で当時は博物館となっていた旧総督府庁舎に入ったことがあります。威圧感のある外観と、内部の白い大理石の豪奢な階段が記憶の片隅に残っています。その後、日帝の残滓の象徴の「解体」を公約に掲げた金泳三大統領期の1995年、旧総督府庁舎は解体されました。

ただ、韓国のすみっこにあり、再開発が遅れた木浦では「敵産家屋」といえども急いで解体を迫られることはなく、結果的に数多く残ることになったとみられます。

朝鮮半島の南西端にあり、海に面した木浦は朝鮮王朝時代、水軍の陣地が築かれ、海洋防御の拠点の役割を果たしていました。19世紀、欧米列強がアジアへ侵出して開国を迫る中、英国が清に侵攻したアヘン戦争(1840~42)で東アジアの政治的下地であった中華秩序が崩れ始めます。「王政復古」でいち早く西欧文明を取り入れた明治日本は朝鮮侵略を目論みました。

1875年、日本の軍艦が江華島水域に勝手に侵入して測量を強行したのに対し、朝鮮軍が発砲して武力衝突する「江華島事件」が起きます。翌76年、日本の治外法権を認める一方、朝鮮には関税自主権がない不平等な内容の「日朝修好条規」が結ばれました。朝鮮は「開国」を迫られ、釜山(1876年)、元山(1880年)、仁川(1883年)の3港を開港します。

朝鮮での権益を争った日清戦争(1894~95)を経て、更なる開港の要求が強まる中、朝鮮の高宗は1897年、4番目の貿易港として勅令で木浦を開港しました。全羅道という穀倉地帯を背にする木浦は、米穀や綿花、塩の輸出を中心に貿易拠点として発展します。キリスト教や日本仏教などの宗教が伝播され、舶来品なども入って来るようになります。ひなびた漁村は人口もどんどんと増え、ソウル、平壌や先に開港した3港とあわせて朝鮮の「6大都市」と呼ばれるまで繁栄しました。

木浦の旧市街地を見渡す見晴らしのいい丘の上に、2階建てのレンガ造りの近代建築が残っています。明治期に日本が居留日本人の保護のために建てた領事館の建物です。丘を上がる坂道のわきの緑地帯には、旧日本軍慰安婦をモチーフにした「少女像」が建立されていました。来訪者に「忘れてはならない歴史」に目を向けるよう呼びかけているかのようです。

領事館は1897年の開港から間もない頃に朝鮮の海軍陣地があった場所に最初に設けられました。今も残る建物は移設先に新築されたもので、1900年に完工しました。

朝鮮の権益を日本とロシアが争った日露戦争(1904~05)を経て、大韓帝国(当時の朝鮮の国号)は日本の「保護国」とされて外交権を奪われます。日本にとって領事業務が不要になったためか、旧領事館は「木浦理事庁」となり、1910年の併合後は、朝鮮総督府の地方出先機関である「木浦府」の庁舎となります。木浦の市街地を一望でき、町のどこからでも目につくような丘の上には半世紀近くにわたって、巨大な日章旗がはためいていたのです。

1945年の「解放」後は木浦市庁、木浦市立図書館、木浦文化院として活用されました。木浦では最も古い近代建築物として韓国の史蹟に指定され、現在は「木浦近代歴史館」の1号館として活用されています。裏山には防空壕跡が残り、トンネル内に入ることができます。歴史館のパネルの説明や展示品に目を通すと、木浦という港町の歩みから日本の朝鮮支配の実態を垣間見ることができます。

いまの旧市街地の場所はもともと水田や干潟が広がっていただけで、多くの人が住めるような土地はありませんでした。開港後に干拓や埋め立てで租界地が設けられましたが、居留する外国人のほとんどは日本人でした。

日本はいち早く土地の買い占めを進めます。木浦のすぐ沖にある高下(コハ)島の地主と「永久」使用契約を締結。日露戦争の頃に赴任した日本の領事の指揮下、この島で綿花の栽培が試行され、日露戦争後に日本が設置した統監部は、島での綿花栽培の権限を「日本綿花栽培協会」に委託します。綿花栽培に必要な採種は、統監部の勧業模範場木浦出張所が引き受け、官民一体で朝鮮の農民に綿花栽培を奨励します。

朝鮮の土地を活用し、朝鮮の農民に栽培させた綿花は日本へ輸出される一方、加工された綿製品が朝鮮へ輸入され、経済的な実利は日本の実業家に入るという仕組みができあがります。植民地経営の典型のような手法です。

木浦に進出した日本の商人らは「木浦興農協会」を結成。日露戦争を経て大韓帝国が日本の「保護国」となったことにも乗じ、穀倉地帯である全羅道で農地の買い占めに乗り出します。四国の高松市に本社を置く「朝鮮實業株式会社」という会社の木浦支店は、羅州、務安、霊岩、康津、海南といった全羅南道の各地で農地の買収を進めます。

こうした日本支配の浸透に朝鮮の民衆は反発し、全羅南道では「義兵」による抗日闘争が起き、日本資本による米穀の収集などを妨害しようと決起します。1909年、義兵による木浦襲撃の警告文が出されると、駐留日本軍は「南韓大討伐作戦」に乗り出し、500余人を殺害し、2千余人を逮捕したとされます。歴史館には、巨大な日章旗を掲げた領事館を見上げる屋外の広場のような所で、拘束された白衣の義兵たちが銃を手にした日本兵に囲まれ、並ばされている白黒写真が展示してありました。

1910年、日本は大韓帝国を「併合」します。植民地経済の重要な拠点のひとつだった木浦は埋め立て事業で陸地が広げられ、道路が整備され、綿花から綿を取る工場も建てられました。1914年には朝鮮総督府の号令で、ソウル(京城)へと至る鉄道が整備されます。大田(テジョン)から光州、羅州など全羅道の主な町を通って木浦に至る「湖南線」の本線と、途中の裡里(イリ)から朝鮮西海に面した港町・群山(クンサン)までの支線が突貫工事で完成したのです。

この時期、朝鮮支配を強固にするため、軍人や物資の大量運搬に活用できる鉄道が半島各地で整備されました。その中でも「湖南線」は、朝鮮随一の穀倉地帯である全羅道で収穫される米穀を、海に面した木浦や群山に大量輸送し、船で日本へと運び出すために活用されました。

歴史館の展示には1911年から29年までに木浦から日本へと「移出」された米穀量の変化を示す折れ線グラフがありましたが、当初は約10万石だったのが約90万石と9倍になり、右肩上がりに増えています。日本による朝鮮での食糧収奪のすさまじさを示しています。



経済格差を背景にした、日本資本による廉価での農地の買い占めはやみません。朝鮮総督府から払い下げられた荒れ地を開墾したり、朝鮮の農民に高利貸しを利用させて借金の返却ができない者から担保の土地を取り上げたりもしました。

展示の中には1930年頃に全羅南道で500町歩(約150万坪)以上の土地を所有していた「大地主」の一覧表がありましたが、最大の所有者は7143町歩(約2143万坪)という広大な土地を所有する日本の国策会社「東洋拓殖株式会社」木浦支店で、次は3084町歩(約925万坪)の朝鮮實業株式会社(高松市)。15者のうち朝鮮人の大地主は5人だけで、あとの10者は日本の企業か日本人(個人)でした。


 こうした日本資本が買い占めた土地は、東洋拓殖が募集した日本からの「農業移民」に安価で割り当てられ、朝鮮の農民の土地はどんどん減りました。なりわいの基盤を失った朝鮮の農民は零細小作農に没落し、窮乏生活を強いられたのです。


  植民地政策が「日本人優越主義」を基盤にしていたことは当時の居住環境からも分かります。開港後、木浦には港湾労働などの仕事を求めて周辺の農村からも朝鮮の人々が集まるようになりました。しかし、住居空間は整備されておらず、朝鮮人労働者とその家族は、町にそびえる儒達(ユダル)山の北側にあった墓地をほかの場所に移して居住地を確保しました。山の北側にあったことから「北村」と呼ばれていたそうです。

一方、儒達山の南側のふもとには、旧領事館を中心に近代的な建物や施設が立ち並んでいました。「南村」と呼ばれた近代開発地域はもっぱら移住してきた日本人のための空間でした。

住宅、道路、電気、上下水道、医療施設と何から何まで「北村」と「南村」の格差は一目瞭然でしたが、統治機関である木浦府は、不便さを訴える朝鮮人たちの生活環境の改善には無関心だったとされます。子どもたちが通う学校も、日本人と朝鮮人は別々でした。


筆者はかつて今の中国と北朝鮮の国境に近い咸鏡北道の山あいにある「阿吾地(アオジ)」という炭鉱町に、植民地期に暮らしていた日本人と韓国人にそれぞれ話を聞いたことがあります。

阿吾地には周辺の豊富な資源をあてに進出した日本窒素系列の工場がありました。夫と日本人従業員の社宅に住んでいた女性は「夢のような、ええ暮らしでした」と振り返りました。社宅には工場から暖房用のスチームが送られ、屋外が零下20度になる厳冬期も家の中は浴衣で過ごせるほどの快適さだったと振り返りました。トイレは水洗で風呂もあり、食べ物も豊富で酒、たばこ、レコードと何でも手に入りました。一方、川を挟んだ対岸には朝鮮人が暮らす粗末な長屋が立ち並んでいましたが、暖房のスチームは送られず、浴場も便所も共同でした。

植民地支配下、朝鮮半島の北の果ての炭鉱町にも、南西端の港町にも日本人が移住してきましたが、朝鮮人と交わって共生することはありませんでした。支配階層として優雅な暮らしをもっぱら享受し、被支配層の貧困には無関心だったのです。可視化された生活環境の格差を日々目にする中、植民地朝鮮で暮らす日本人の意識の下地にはおのずと朝鮮人に対する「優越意識」が芽生えたことでしょう。

朝鮮の人々の中には日本統治に協力することで権力を維持し、富を蓄えた人もいました。しかし、多くの民衆、特に経済的に収奪され、社会的に抑圧された人々の心には、日本に対する敵意が宿り、積もりに積もっていたのです。植民地支配に対する視座の違いが、いまなお埋め合わすことのできない歴史認識を巡る日韓の断絶につながっていると筆者は考えます。

旧領事館の建物から坂を下って平地におりると、「繁華路」という名の通りがあります。その名から、かつて市街地の目抜き通りであったことが分かる通りに面し、堅固で威圧感を感じさせる2階建ての建物があります。植民地経営のための日本の国策会社「東洋拓殖株式会社」の木浦支店の建物で、今は改修されて「木浦近代歴史館」の2号館として歴史の証人になっています。

 


 旧満州(中国東北部)を経済支配した南満州鉄道のように、東洋拓殖は朝鮮での植民地政策の基盤を支える国策会社でした。日韓併合に先立つ1908年に設立され、朝鮮各地に支店が置かれます。全羅南道では1909年に羅州の栄山浦に支店が設置された後、1920年に木浦に移されました。今なお活用されている建物は、1921年に竣工しました。

  国策会社の設立に向けて「東洋拓殖株式会社法」が日本の国会で制定された時、会社の存立期間は「100年」とされたそうです。日本が、朝鮮の植民地支配を半永久的なものと疑いもなく信じていた証しです。総裁は日本人にし、役員のうち3分の2も日本人にすると定められていました。

  本社は会社発足当初はソウル(京城)にありましたが、大日本帝国の支配域拡大にあわせて東京に移されます。1942年の時点で朝鮮の支店は京城、釜山、大邱、木浦、裡里、大田、元山、沙里院、平壌、羅津の10箇所にあったほか、中国に10箇所、南洋諸島にも2箇所の支店を設けていました。

   植民地朝鮮での東洋拓殖の役目は、日本から朝鮮への「農業移民」を促して土地を安価で分配し、日本支配に資する地主や資本家を増やし、日本支配に役に立つ事業に資金提供するなど植民地統治を経済面から支えることでした。そのため、日本人だけでなく、「親日」の朝鮮人も融資の対象とされました。また、日本への米穀の「移出」に関与するだけでなく、各地に出張所を設けて生産管理にものり出し、東洋拓殖管理下のコメは「東拓米」と呼ばれました。

  土地を買い占められ、生産の糧を失った朝鮮の零細農民は小作農に没落し、東拓に「雇用」される境遇にもなりました。東拓は自分たちの都合で小作の権利を勝手に別の者に移したり、小作料を引き上げたりします。あまりの横暴に耐えかねた小作農たちによる争議が頻繁に起きます。

  羅州など全羅南道の農民たちは「小作料」を意図的に納めない抵抗運動を繰り広げます。1925年には羅州で8千人の小作農らが集まり、東拓の横暴を糾弾する集会を開催。鎮圧しようとした武装警官隊が代表者らを検挙しようとすると、農民たちは必死に抵抗しました。「東拓の小作争議は結局、血の乱闘を演出」「刀を抜いた日本人巡査を群衆が乱打」と、当時の様子を報じた朝鮮日報の記事(1925年11月29日)のコピーが、歴史館の展示の中にありました。1931年には康津という町で、小作料の引き下げと東拓の「撤廃」を求める民衆運動が起き、逮捕者が出ました。1932年には、東拓による貯水池の造成で耕作地を失った務安の小作農ら約100人が東拓木浦支店に殺到して抗議する事件も起きます。

 


朝鮮の民衆から見て、東拓がどれだけ憎悪や嫌悪の対象とされていたかが、当時の朝鮮紙の新聞記事からうかがえます。

 植民地支配の象徴でもあった「東拓」の木浦支店は日本の敗戦による解放後、韓国海軍の憲兵隊の庁舎として長年利用されましたが、憲兵隊が1989年に霊岩に移転後は、約10年間放置され、廃虚のようになっていました。ソウルで旧朝鮮総督府庁舎が解体されるなど、各地で「日帝の残滓」が取り壊される中、1999年には遂に撤去工事が始まります。

 その時、木浦市民の中から「近代文化遺産」として建物の保存を求める運動が起き、学術大会や現地でのフィールドワークも実施されました。「日帝強占期に韓国人の土地と資源を巧妙に収奪したという、歴史的にみて意味のある建物」(歴史館の説明)として東拓の建物は残されることになり、「全羅南道紀年物」に指定され、解体を免れることになったのです。

朝鮮の土地がまるで自分たちのものであるかのように威勢をふるった「東拓」。 朝鮮の民衆からすれば、土地という生産手段を奪い、米穀という生産の成果まで奪った怨念の対象ですが、建物を残すことが、後世への歴史の継承につながると考えられたのでしょう。そのおかげで、筆者のような日本からの訪問客も、実感をもって「植民地朝鮮で日本は何をしたのか」を学ぶことができました。

  朝鮮の民衆から「怪物会社」と呼ばれた東洋拓殖株式会社。木浦に残る拠点の建物は、私たち日本人が忘れてはならない歴史をいまに伝えているのです。

   

 

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