金大中。死の瀬戸際を5度も生き抜いた不屈の偉人

  「金大中」

1970~80年代に幼少期を過ごした筆者にとって「韓国人」と言って頭に思い浮かぶ人物のひとりが、この人でした。日本のテレビのアナウンサーはまだ日本式の音読みで「きん・だいちゅう」と呼んでいた記憶があります。ちなみにもう一人は、韓国の元首として初めて日本を訪れた「テモリ(禿げ頭)」の大統領です。

いまの日本の少年少女であれば、「韓国人」と言えば、BTSのメンバーをはじめ、K―POPのスターの名前がすらすらと出てくるのでしょう。それだけ当時の日本で流れる韓国に関する情報は、今と比べても極端に少なく、偏ったものでした。

韓国南西端の港町、木浦(モッポ)を今冬に訪れた際、旧市街地から港沿いに歩いていける三鶴島(サマクド)にある「金大中ノーベル平和賞記念館」を訪れました。



金大中は大統領任期中の2000年6月、朝鮮の南北分断後、初めてとなる首脳会談を実現し、融和ムードを高め、民間交流や経済協力事業を推進しました。北東アジア地域の緊張緩和をもたらし、国際平和に寄与したとしてその年の12月、ノーベル平和賞を受賞します。

記念館は民主主義と人権、平和という人類普遍の価値を守るために生涯を捧げた木浦が生んだ偉人の功績を後世に伝えるため、2013年に故郷の地に開館しました。観覧は無料です。展示コーナーのはじめに、金色に輝くノーベル平和賞の受賞メダルが展示してあり、度肝を抜かれます。

◇生誕100年

訪問時、建物の正面には生前の写真とともに「金大中 100年」と大きく記した横断幕がかかっていました。2024年は生誕からちょうど100年にあたる記念の年で、関連イベントもあるようです。

日本が朝鮮を植民地支配していた1924年1月6日、金大中は木浦沖に浮かぶ荷衣島で生まれます。島の公立普通学校(小学校)では成績優秀で、上級学校に進学させたいという親の期待も受けて12歳の時、家族で木浦の市街地に引っ越し、木浦公立商業学校で学びます。



太平洋戦争中の戦時特別措置で卒業が繰り上げられ、20歳の時、全南汽船会社に入社し、経理職員として働き始めたのが社会人としての第一歩でした。

21歳だった1945年8月15日、日本の植民地支配が終焉を迎えます。朝鮮独立運動家の呂運亨(ヨ・ウニョン)率いる「建国準備委員会」の地域組織に参加したのが、長い政治活動の始まりでした。やがて新たに結党された政党にも参加しますが、路線対立を背景に組織を離れ、しばらく政治とは距離を置きます。1947年には50トン級の船舶を購入して小さな海運会社を起こし、沿岸海運事業に乗り出しました。

やがて朝鮮戦争(1950~53)が始まると、木浦まで南下してきた北朝鮮軍に捕らえられて刑務所に収監され、処刑される命の危機に瀕しますが、直前に脱出したとされます。国連軍の仁川上陸作戦を機に戦況が転じ、北朝鮮軍が急遽撤退して姿を消したのです。生きながらえた金大中は、いち早く海運事業を再開し、「木浦日報」という新聞社も買収します。

若い頃からずっと政治活動に専念していたわけではなく、20代の頃は会社員として経理の仕事を経験し、起業や会社経営の経験もあったのです。実社会で培った実業の経験が、のちに最高権力者となった後、理念一辺倒の偏ったものではなく、バランス感覚のとれた多様な政策を展開する下地になったのだと感じます。

韓国の初代大統領である李承晩統治下の政治弾圧事件を機に、政治家になる決心をしたという金大中。30歳の時に初めて国会議員(民議員)選挙に故郷の木浦で出馬しますが、落選します。すると、翌年にはソウルに上京。「労働問題研究所」などを拠点に活動する中、明洞聖堂で洗礼を受けます。キリスト教信者としての厚い信仰心が、金大中の偉大さでもある寛大なゆるしの心を育んだのでしょうか。

政治活動では民主党に入党し、党内で割り当てられたであろう江原道内の選挙区で国会議員選挙に何度も出馬しますが、落選を重ねます。1961年5月の補欠選挙でようやく初めての当選を果たしますが、ちょうどその時、朴正熙率いる軍事クーデターが起き、軍事独裁が始まります。混乱の中、せっかく当選を果たしたものの国会で宣誓のあいさつもできなかった、と館内の説明文にありました。

1963年、故郷の木浦の選挙区で民主党候補として出馬し、念願の当選を果たします。生まれ育った故郷の人々の代表になったのです。

◇名演説で頭角あらわす

韓国の政党は分裂と新党の結成、党名の変更を今も頻繁に繰り返していますが、むかしもそのようで、金大中の所属政党の名もよく変わります。卓越した演説の才能を認められ、所属政党では「スポークスマン」の役割を託されました。1964年には、党友の議員の身柄を拘束しようとする朴正熙政権与党の議案上程を遅らせるため、国会で5時間19分にわたる大演説をし、ギネス登録もされました。

民主化を求める野党政治家として頭角をあらわし、1970年、46歳の時には遂に野党系の大統領候補に指名されます。

明くる1971年の大統領選挙。ソウルの屋外公園の遊説会場を埋め尽くした「100万人」とも言われる大聴衆の前で、金大中は「今回、朴正熙の長期政権を終わらせることができなければ、この国からは選挙もなくなり、国会もない総統時代を迎えることになる」と訴え、拍手喝采を浴びました。



絶対的な権力者である朴正熙の634万票に対し、在野の政治家である金大中は537万票と97万票差にまで迫りますが、敗れました。軍事独裁政権は続き、金大中の予言通り、朴正熙は「維新体制」を掲げて大統領に権限を集中させて権力を強化し、独裁色を一層強めます。

民主化を訴え、民心をつかむ演説をする金大中は、朴正熙にとっては自身の安泰を脅かす、鬱陶しくて憎たらしい「政敵」だったことでしょう。朴正熙本人が秘密裏に命じたのか、それとも「閣下」の意図を忖度した部下が企んだのか、いまだに真相は明らかではありませんが、金大中は何度も死の瀬戸際に追いやられます。

◇繰り返された「暗殺」の危機

1971年5月、国会議員選挙の候補者の応援遊説で、木浦から光州へと車で移動中、対向車線のトラックがすれ違いざまに突然センターラインを越えて来ました。衝突を避けようと車は転覆し、金大中は大けがを負います。まともに衝突していれば、命を奪われていかかも知れません。野党は刑事事件としての徹底捜査を求めましたが、司法機関は単なる交通事故として処理し、「疑惑の交通事故」と呼ばれています。金大中は左足に後遺症が残り、歩行時に杖が欠かせなくなります。

足の治療を目的に訪日中の1972年10月、金大中は朴正熙政権を批判する「維新反対声明」を出し、しばらく日本で亡命生活を送ります。1973年8月8日、知人と会う約束で東京のグランドパレスホテルを訪れた金大中は、後に韓国中央情報部(KCIA)の要員と判明する男らに廊下でとらえられ、暗殺の危機に瀕します。

必死の抵抗でホテル内での殺害はうまくいかず、なんらかの急な事情が生じたのか、男らは金大中を拉致して車に押し込めて長距離移動し、神戸港付近で工作船に乗せます。


男らは金大中の全身を縛り、足におもりをくくりつけて航行中の船の甲板から海に投げ入れて「水死」させようとします。しかし、なぜかここで突然、男らは実行を取りやめました。だれかは不明ですが、上司から「暗殺計画中止」の連絡が入ったのでしょう。目隠しをしたまま船を下ろされ、車に乗せられた金大中は8月13日、ソウルの東橋洞の自宅前で129時間ぶりに解放されました。まさに「九死に一生」を得たのです。

なぜ、KCIAは金大中暗殺計画の実行を突然中止したのか。記念館には「米国の介入」との説明書きがありましたが、詳しいいきさつはいまだ表には出ていません。拉致現場に残された遺留物の指紋から韓国大使館員の関与が明らかになりましたが、時の日本政府は、朴正熙政権に対する政治配慮からか、自国内で起きた不可解な拉致事件の徹底追究をせず、うやむやなままにしました。

しかし、この事件を通して朴正熙政権の独裁の異常さが世界に知れ渡るとともに、金大中は民主化運動の指導者として注目を集めるようになります。


暗殺の危機を生きのびたものの、金大中は自宅軟禁と一切の政治活動の禁止を命じられます。しかし、そんな権力の脅しで沈黙する活動家ではありませんでした。1976年の抗日運動の記念日には、民主化を求める在野の宗教家らと「3・1民主救国宣言」を出し、懲役5年の判決を受けます。政治犯として矯導所(刑務所)に収監された後は抗議の断食闘争を繰り返します。

金大中を「政敵」として恐れた朴正熙は1979年10月、側近であるKCIAのトップに暗殺されます。約20年に及んだ軍事独裁がようやく終わったと、韓国社会では民主化の機運が高まりました。自宅軟禁を解かれ、「赦免復権」を果たした金大中は1980年3月には9年ぶりに聴衆を集めての政治演説をし、その後も各地での講演で民主化実現を訴えました。

しかし、韓国の人々の希望を断ち切るかのように、あの「テモリ(禿げ頭)」が登場します。全斗煥率いる新軍部が権力を掌握。高まる民主化の声を暴力でねじ伏せようと、非常戒厳令を全国に拡大し、韓国全土は軍の統制下になります。5月17日、金大中は自宅から当局に連行されて拷問を受けました。


◇軍事法廷で「死刑」に

翌5月18日、光州事件が起きます。光州の中心街に民主化を訴えて集まった学生や市民に向けて韓国軍は銃弾を放ち、逃げる民衆を追いかけて棍棒で撲殺します。数百人の民衆が自国の軍隊に殺害されるという惨劇が起きたのです。しかし、軍事独裁のもと、光州の民衆の決起は「パルゲンイ(赤)=共産主義者」に扇動された「暴徒」とされ、軍による大量殺戮が正当化されます。

光州事件の発生時、金大中は当局に身柄拘束されていたにもかかわらず、光州の内乱を首謀したとする国家保安法違反などの罪で訴追され、軍事法廷で死刑判決を受けます。「事件を口実に、あの鬱陶しい金大中を消してしまえ」。そんな「テモリ」がほくそ笑む顔を想像してしまいました。

再び死の瀬戸際に立たされた希代の政治家を救ったのは国際世論であり、外圧でした。民主党のジミー・カーターが大統領を務めていた米国政府の圧力を、さすがの「テモリ」も無視はできなかったのでしょう。金大中は収監中に死刑から無期懲役となり、さらに懲役20年に減刑された後、1982年12月には刑の執行停止措置で釈放され、米国に政治亡命します。

米国滞在中、金大中はニューズウィーク誌の取材を受けて韓国の過酷な人権状況を訴え、ハーバード大学の客員研究員として活動します。しかし、インターネットのない時代、米国でいくら韓国の民主化を訴えて声を挙げても肝心の韓国の民衆にはなかなか届かないと、隔靴搔痒のもやもやとした気持ちだったのでしょう。

1985年2月、「テモリ」政権の入国許可が出ない中、金大中は帰国を強行します。その2年前、1983年8月にはフィリピンのマルコス独裁政権下、民主化を求める野党政治家のベニグノ・アキノ氏が亡命先から帰国した際、マニラの空港に到着後、衆人環視のもとで軍に射殺されるという衝撃的な事件が起きていました。同様の悲劇が起きることを警戒し、金大中の帰国には米国の政治関係者らが同行。さすがの「テモリ」も手を出すことはありませんでした。

1987年6月、韓国は民主化を果たしますが、その年の12月の大統領選挙は、同じ野党系の金泳三と金大中で票が割れ、全斗煥と同じ「新軍部」出身の盧泰愚が当選しました。5年後の1992年12月、金大中はまたまた大統領選挙に挑みますが、長年のライバルである金泳三が当選を果たします。

さすがにショックを受けたのか、金大中は「政界引退」を宣言します。英国のケンブリッジ大学で客員教授を務めるなど、しばらくは「隠居」していたようですが、金大中を慕い、次こそは大統領にと求める同志が少なくなかったのでしょう。1995年7月には政治活動復帰を宣言。新たな野党を結成して大統領選挙の候補に選出され、1997年12月の選挙で遂に当選を果たしました。

朝鮮戦争で北朝鮮軍にとらえられて処刑される寸前だった時。朴正熙政権下での疑惑の「交通事故」、そして東京のホテル内と船上でのKCIAによる暗殺の危機。さらには光州事件での死刑判決。記念館では「5度の死の瀬戸際」と説明していますが、よくぞ生きのびたものだと思います。

金大中の命が助かったかげには何度も米国政府の姿がちらつきますが、軍事独裁政権下で民主化を求めて当局に政治犯としてとらえられて「刑場の露」となった多くの活動家、そして光州事件で軍に命を奪われた大勢の無辜の市民をはじめ、名も無い無数の民衆の民主化への願いが、金大中を生きながらえさせたような気がしてなりません。


◇初の南北首脳会談を実現

74歳で1998年に大統領に就任した金大中。就任早々、韓国で「IMF危機」と呼ばれるアジア通貨危機への対処を迫られ、旧態依然とした財閥中心の経済構造の改革に手を着けます。IT(情報技術)の積極導入にも務めました。

また、日本の大衆文化の開放を決断し、相互の文化交流を活性化させます。同時に「文化産業」という言葉を多用し、映画制作など文化芸術産業の振興に努めます。「金は出すが、口は出さない」という姿勢を貫き、今につながる韓流コンテンツ発展の下地を築きました。

数々の功績の中で何よりも特筆されるのは、ノーベル平和賞受賞につながった南北首脳会談の実現でしょう。2000年6月13日、平壌の順安空港に降り立った金大中は、出迎えた北朝鮮の指導者、金正日と握手を交わします。



その時、筆者は在日韓国・朝鮮人が大勢暮らす大阪のコリアタウンの喫茶店にいました。平壌からの中継映像を見守る中、両首脳が握手を交わした瞬間、「万歳(マンセー)」と歓喜の声をあげ、涙を流す在日のお年寄りの姿は忘れられません。南北共同宣言が出された15日夜にはコリアタウン近くの公園で、韓国の焼酎「真露」と北朝鮮の焼酎「平壌」を混ぜて「統一だ!」とのみほして喜ぶ人々の姿がありました。

歴史的な会談後、朝鮮戦争で生き別れたままの南北離散家族の再会事業が進み、開城工業団地や金剛山観光など韓国資本が北朝鮮に進出して事業展開する新たな経済協力もうまれました。分断後に断絶したままの南北の鉄路をつなげようという動きもありました。文化芸能やスポーツでの交流も繰り広げられました。

矢継ぎ早の展開に、親しくなった在日1世のハラボジ(おじいさん)は「近いうちに統一した祖国に帰れるかも知れない」と夢を語りました。

あれから20年余り。夢はかなわぬまま、ハラボジはすでに他界しました。

北朝鮮の核・ミサイル開発は止まらず、韓国では独自の「核武装」を求める声が絶えません。南北ともに指導者の基本姿勢はすっかり変わり、南北の交流事業はすべて途絶え、北の指導者は南を「主敵」と呼ぶようになりました。まるで朝鮮戦争の頃に逆戻りしたかのような険悪な空気が漂っています。

幾多の死の瀬戸際をのりこえ、南北の融和と協力の種をまいた金大中は2009年8月、85歳でこの世に別れを告げました。いま、草葉の陰でどう思っているのでしょうか。

                                                       (敬称略)


 


 

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