戦争が全くなかった250余年 「韓流」使節団が寄港した港町

 

    陽光に照らされてキラキラと輝く海面。波は穏やかで、なだらかな形の島々が水平線上に浮かんでいます。地元の観光地である「オリーブ園」の看板が、温暖な気候の地であることを示しています。

 


    瀬戸内海に面した港町、岡山県瀬戸内市の牛窓(うしまど)。「日本のエーゲ海」とも称する港町は古くから「風待ち、潮待ち」の港町として栄えました。港の海岸線に沿って「しおまち唐琴(からこと)通り」と呼ばれる通りがあります。道幅が江戸時代のままという古い通りの両脇には、白壁の土蔵や格子戸のある木造家屋が立ち並んでいます。



    

    牛窓は江戸時代に、朝鮮王朝からの外交使節団「朝鮮通信使」が寄港、上陸した港町で、使節団を代表する三使(正使、副使、従事官)が宿に利用したという本蓮寺や御茶屋跡が残っています。


 

 海に面した「牛窓海遊文化館」(入場料300円)の展示を通して、牛窓と朝鮮通信使のつながりを学ぶことができます。

 

 16世紀末、日本は朝鮮に侵略しました。天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、何を血迷ったのか中国の明王朝の征服を思いつき、朝鮮王朝にその「道案内」をするよう要求します。朝鮮は明と朝貢関係にあり、当然ながら拒否します。すると、秀吉は加藤清正や小西行長といった家臣の武将らを朝鮮へと侵攻させます。日本で「文禄・慶長の役」(1592~98)、朝鮮で「壬辰・丁酉倭乱」と呼ばれる無謀な朝鮮侵略戦争は、秀吉の死とともに終わりました。

 その後、日本では関ケ原の戦いや大阪城をめぐる冬夏の陣を経て、徳川政権が樹立します。江戸時代のはじまりです。

 海を越えて侵略してきた隣国を、統治者が変わったからといって果たして信用していいものかどうか。朝鮮王朝が警戒したのも当然でしょう。秀吉軍の朝鮮侵略時に義挙した僧兵らを指揮して戦った松雲大師(四溟堂、サミョンダン)を、朝鮮王は徳川新政権との交渉役として派遣します。対馬滞在を経て京都に至った大師は1605年、伏見城で徳川家康と面会し、新政権には朝鮮侵略の意図がないことを確認しました。そもそも家康は秀吉の命令をうまくかわして、自軍を朝鮮に派兵しませんでした。無謀な戦争だと気付いていたのでしょう。

 2年後の1607年、日本と朝鮮の国交の回復を掲げて第1回の通信使が漢城(ソウル)から江戸へと派遣されます。ただ、1624年の第3回までは秀吉軍が連行した捕虜を朝鮮に連れ帰ることが大きな目的のひとつで、「回答兼刷還使」と呼ばれていました。大名の交代などを機に朝鮮王朝の使節団の派遣は19世紀はじめまで200年余り続きました。その間、日本と朝鮮が戦火を交えることは一度もありませんでした。


 

牛窓のある瀬戸内市は、この平和維持使節団創設の立役者ともいえる松雲大師の出身者、韓国慶尚南道の密陽(ミリャン)市と2006年に友好交流協定を結び、様々な相互交流が続いているようです。通信使の縁は今もつながっています。

朝鮮通信使は朝鮮王の国書を江戸の徳川将軍へ届けることが最も重要な役目でしたが、文人や楽隊を含む文化交流使節団でもありました。儒学を重用した朝鮮王朝。使節団に選ばれた官僚(両班)は漢詩にたけ、寄港地で書を残したりしています。牛窓でも岡山藩を代表する儒者と、互いに漢詩を詠んで交流したようです。

牛窓では毎年10月の第4日曜日に秋祭りが開かれていますが、地域の祭りにも通信使の名残とみられるものがあります。素盞嗚神社(疫神社)では、赤や黄の異国風の原色衣装を身につけた2人の男の子が、小太鼓や笛の音と歌にあわせて、そろって手や足をのばす独特の踊りを披露します。「唐子踊り」と呼ばれるこの踊りや衣装、歌は通信使の一行が伝えたものだとする説があるとのことです。中国と関係があるという説や地元での創作説もあるそうですが、もともと地元で古くから続いていたお祭りに、通信使の一行が披露した踊りや音楽が何らかの影響を与えたのではないでしょうか。

 

もうひとつ、秋祭りの日には牛窓の町をだんじりが練り歩くのですが、このうちの「船形だんじり」は江戸期に描かれた「朝鮮人渡海船之図」とそっくりだと、海遊文化館の展示の説明書きにありました。確かにほかの地域でもあまり見かけない、船首部分を龍頭で飾った独特の装飾をしています。




 牛窓はかつて名船大工の町として栄え、瀬戸内海の沿岸各地から注文が舞い込んだそうです。朝鮮通信使の乗った豪華絢爛な船にびっくり仰天した牛窓の船大工が、腕をふるって新しいだんじりを作ったのでしょうか。

江戸期は「鎖国」の時代。接遇役を担う藩の代表者を除き、一般の民衆は朝鮮使一行と自由に接触することは禁じられていました。とはいえ、めったにお目にかかれない異国からの珍しい使節団を、ひと目は見ておきたいという民衆は多かったのでしょう。

備前岡山藩の下級藩士の中には公務を放り出して岡山城から牛窓の浜に駆けつけて通信使を見物し、それが後日露見して「蟄居」を命じられた者がいたそうです。岡山藩はまた、牛窓の住民に次のようなお触れを出したとのことです。

・官船が渡海する時、または船が繫がれている間に、家や浦から、また海岸へ出て見物する者は、男女が入り交じらないように、行儀よく片付いていること。山の高みから見る者も、行儀よく見物すること。

・朝鮮国王の国書が通る時は言うにおよばず、三使(正使、副使、従事官)が通る時にも、道の片側によって、はいつくばっていること。

このようなお触れを出すほど、通信使の一行をひと目みようと港に民衆が殺到したのでしょう。

江戸期の朝鮮通信使は計12回実施されましたが、最後の一行は対馬止まりで牛窓に立ち寄ったのは11回目まででした。最初のうちは10年前後ごとにやって来たものの、7回目以降は30年近い間隔があくようにもなります。

いま風に言えば、「阪神タイガースの優勝」のような貴重な機会だったのかも知れません。

また、韓流ブームはすでに江戸期にあったとも言えます。もしかしたら唐子踊りの舞いは、BTSのような今日のK・POPスターのダンスの源流と言えるかも知れません。


 参考資料:「牛窓と朝鮮通信使」(瀬戸内市教育委員会発行)

 

 

 

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