韓国の大銀杏は見た! 抗日義兵と朝鮮戦争

 

その銀杏の木は、静かな山寺の中に悠然と立っています。太い幹や枝葉は、下の方よりも上の方が強くしなっており、厳しいであろう真冬の風雪にも耐えてきた果てしなく長い歳月を物語っています。

  韓国のソウル中心部から東南東に約70キロメートル。龍門山(ヨンムンサン、標高1157メートル)の中腹にある龍門寺という山寺には、高さが約40メートルにもなる銀杏の大木があります。樹齢が推定1100年~1500年にもなるという巨木は、韓国の天然記念物に指定されています。

 


いまなお毎年秋には大量の実がなり、「有実樹では東洋一の銀杏の樹」とされています。説明板によると、古代の新羅が滅亡した際、皇太子が亡国への「恨」を抱きながら金剛山へと向かう途中に植えたとする説や、新羅の高僧が用いていた杖を地面に突き立てたところ根がはえて大きくなった、という説があるようです。

 2023年夏、新型コロナ禍を挟んで数年ぶりに訪れた韓国。ソウルに住む旧知の写真作家、安海龍(アン・ヘリョン)さんにソウルから日帰りで往復できる「おすすめの名所」をたずねたところ、紹介されたのがこの龍門寺(ヨンムンサ)でした。

 



 この寺院は新羅時代の僧侶が建てたと伝えられていますが、本堂にあたる「大雄殿」をはじめとする建築物からは、それほどの古さが感じられません。寺の沿革を記した説明板に、その理由の一端が記されていました。

「(朝鮮王朝の)高宗30年(1893年)に鳳城大師が建物を増築したが、1907年、義兵の拠点として利用されると、日本軍が火を放った」

韓国ののどかな山奥。思いもよらぬところにも日本支配の痕跡がありました。

明治維新後、富国強兵に邁進した日本は日清戦争(1894~95)と日露戦争(1904~05)を経て朝鮮半島での権益を拡大します。第1次、第2次日韓協約で財政、外交での支配権を奪って大韓帝国(当時の朝鮮王朝の国号)を日本の「保護国」とし、統監府を設置して伊藤博文が初代統監に就きます。また、日本軍が駐屯し、兵力を思いのままに行使します。

1907年6月、大韓帝国の皇帝、高宗(コジョン)は全権委任状を3人の特使に託し、オランダのハーグで開かれていた万国平和会議へと秘密裏に派遣します。日韓協約は無効であると訴えるためで、結局、会議には参加できませんでしたが、「ハーグ密使事件」と呼ばれます。日本支配に抵抗しようとする高宗の振る舞いに伊藤博文は激怒したのでしょう。翌7月には「協約違反」を口実に、内政全権までを日本が掌握する方針を一方的に閣議決定。高宗を強制的に退位させ、皇太子である純宗(スンジョン)を即位させます。そして第3次日韓協約で遂に軍隊も解散させます。

1907年は事実上、日本による朝鮮半島の植民地支配の仕組みができあがった年とも言えます。

日本の強権的な振る舞いに、朝鮮の民衆は黙ってはいませんでした。「解散」を命じられた軍人たちも唯々諾々と従うはずもありません。隠し持っていた武器を手に、日本支配の象徴である派出所などを襲撃したり、日本軍が兵隊や物資の輸送に活用していた鉄道を破壊したりする「義兵闘争」が各地で起きます。

奥深い山寺は、そんな義兵が集う抗日闘争のよりどころとなったのです。ここを拠点にした義兵たちのゲリラ攻撃に、日本軍は相当苦しめられたのでしょう。根拠地として使えなくしてしまおうと、山寺を「焼き打ち」したのです。

銀杏の巨木も当然、日本軍の目に入ったことでしょう。しかし、日本軍が切り倒そうとしても、決して巨木は蛮行に屈して倒れることはありませんでした。当時の斧による傷が今も幹に残っていると言います。

1910年、日本は遂に大韓帝国を「併合」し、植民地とします。失意の高宗は1919年1月に他界。高宗の死がきっかけとなり、「独立万歳」と日本支配の打倒を訴えて民衆が各地で決起する3・1運動へとつながります。

大銀杏には、高宗が亡くなった時、大きな幹のひとつが突然折れた、との言い伝えもあるようです。

  龍門寺につながる参道の一角には「龍門抗日闘争記念碑」や「独立運動記念碑」と刻まれた石碑が立っています。はじめ寺へと上るときは、なぜこんなところにこんな碑が立っているのだろうと不思議に思いましたが、寺を訪れてその理由が分かりました。

  


 ほかの韓国の山寺と同じように、龍門寺のふもとにも門前町のような食堂が立ち並ぶ集落があります。辺りは観光地となっており、その一角に「親環境農業博物館」という建物があります。水田で農薬を使わずにアイガモに雑草を食べさせる地元の有機農業などを紹介する施設ですが、訪問時には「英雄が記憶する青い目の友人たち」という特別展も開かれていました。朝鮮戦争(1950~53)の後に締結された韓米相互防衛条約70周年を記念した企画で、朝鮮戦争時に龍門を含む楊平(ヤンピョン)地域であった戦闘を紹介したものです。

1945年、日本の敗戦によって朝鮮半島は植民地支配から解放されたものの、駐屯していた日本軍の武装解除のため北緯38度線を境に北はソ連軍、南は米軍が駐屯。朝鮮半島は冷戦の最前線となります。1948年には南で大韓民国、北で朝鮮民主主義人民共和国が、それぞれ米ソを後ろ盾にして建国。50年6月に朝鮮戦争が勃発すると、南側を米軍主体の国連軍、北側を中国軍が支援します。大国の代理戦争ともいえる消耗戦で朝鮮半島は焦土となり、数百万人もの人々が犠牲になりました。

龍門山一帯も戦場となり、1951年5月には韓国軍と中国軍による激戦が繰り広げられました。この戦闘を契機に、それまで中国軍の進撃で守勢に回っていた国連軍が反撃に転じるきっかけになった、との説明がありました。

  大銀杏は再びの戦禍をくぐり抜け、今なお命を継いでいるのです。

  龍門寺に行くには、ソウルの地下鉄1号線の清涼里(チョンニャンニ)駅からKOREIL(韓国鉄道)の京畿中央線に乗り換えて龍門行きに乗り、1時間以上電車に揺られると、終着の龍門駅に着きます。途中、漢江に沿ってはしる鉄路の車窓からは、緑の山と青い空が見え、素朴な韓国の田舎の風景が楽しめます。

  駅につくと、門前町の食堂のスタッフである運転手が待ち構えています。駅舎から出るエスカレーターの下で観光客を待ち構えている人影があり、最初は「白タクだろうか?」と警戒しましたが、食堂で食事をすれば駅までの往復を無料送迎してくれるとのことで、信用して乗りこむと「言行一致」のサービスでした。

 食堂で注文した「ツルニンジンの焼き物と山菜の定食」は1人前1万5000ウォン(2023年9月1日現在、約1600円)。運転スタッフは親切にも帰路は少し遠回りをして龍門山の山頂がよく見えるところも案内してくれました。

 頑丈そうな建物とアンテナが立ち並ぶ頂上。韓国の要衝の山ではよく軍事施設を見かけますが、龍門山も例外ではなく、しかもここには韓国軍だけでなく米軍兵も詰めて、北朝鮮の動向ににらみをきかしているようです。

静かな山寺の一角に立つ大銀杏。歴史の目撃者との出会いに感謝します。




秋になると葉が黄色に染まり、辺りはまるで黄色い絨毯をしきつめたようになるようです。(韓国・文化財庁のHPより)。機会があれば、再び紅葉の時期に訪れてみたいと思います。



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