玄界灘を渡った漁民のまち

 

 小豆島をはじめ瀬戸内海に浮かぶ島々が一望できます。小豆島のさらに奥の方にかすかに見える稜線は四国の山並み。ここは本州側で穏やかな瀬戸内の絶景が見渡せる指折りの場所といえるでしょう。

 


  岡山県の南東端、備前市の日生(ひなせ)町は瀬戸内海に面した町です。近隣の島々への渡船だけでなく、小豆島と結ぶフェリーも発着します。JR赤穂線の日生駅で列車を降りると、もう目の前が港です。内港の対岸にある小高い山の頂上まで小一時間歩けば、「みなとの見える丘公園」があり、四方を見渡せる展望台があります。

  島々に囲まれた湾には冬の味覚カキを育む養殖筏がいくつも浮かんでいます。日生はカキ入りのお好み焼き「カキオコ」が自慢のまち。毎年12月から3月にかけてのシーズンにはカキオコ目当ての観光客も多く訪れます。

 



展望台で西の方に目を転じれば、漁船がたくさん停泊している漁港があります。まわりに瓦屋根の民家が立ち並び、日生が歴史のある漁業の町だと分かります。みなとの見える丘公園から山の斜面を南側の方に下って行けば、「五味の市」という魚市場があり、その日水揚げされた新鮮な魚介類を直売しています。

         


 魚市場の近くにある「加古浦歴史文化館」を訪ねると、日生の歩んだ歴史に触れることができます。

 小生が訪ねた2021年12月には、漁業をめぐる日生と朝鮮半島のつながりを示す展示がありました。

 「日生の遠洋漁業」と題した説明板によれば、瀬戸内海をはじめ近海での漁獲量が減ったこともあり、日生の漁民は明治時代の19世紀から朝鮮近海へと出漁していたようです。

 日本が大韓帝国を併合した「日韓併合」の翌年にあたる明治44年(1911年)には「日生朝鮮出漁組合」を組織して本格的に出漁を展開。朝鮮近海で大量のサワラやタイ、ハモ、海老などを獲り、現地で売買したり、塩切りにして日本に輸送したりしました。

 朝鮮近海での漁獲が本格化するにつれて、日生から朝鮮半島の南部や南東部の沿岸に移住する漁民も増えました。なかでも大勢が移住し、日生出身者が集まったのが「方魚津(バンオジン)」です。いまは蔚山(ウルサン)特別市の一部になっています。

説明によれば、大正6、7年(1917、18年)ごろまでには100戸が移住したとのことです。集落まるごと引っ越したような規模です。いち早く海を渡った日生出身者の朝鮮での成功談が伝わり、一旗揚げようと次々と玄界灘を渡っていったのでしょう。

 ネット上で公開されている韓国漁業史に関する論文(アジア成長研究所の小松正之客員教授)には「西日本の漁業者や会社は新天地を求めて朝鮮半島南部を中心とした朝鮮海域に出漁し、その漁獲物を国内に持ち込むことで、国内の水産物需要を満たした」とあります。植民地支配を定着させるため、統治機関の朝鮮総督府は日本からの移住者が利用しやすいよう土地の整理による「収奪」を進めましたが、朝鮮総督府は漁業関連の法令も整備し、1929年には朝鮮漁業法を改正します。上記論文は「韓国の沿岸漁業者の権利を認めず、沿岸水域で日本から進出した漁業者が漁業を行うには好都合な法律(改正令)にしたといわれる」とも指摘しています。

歴史文化館の展示品には当時の漁船や漁業の様子の写真のほか、小学校や商店など当時の方魚津の町並みを再現した地図もありました。「本願寺」や「高野山」という名の寺院もみえ、いかに大勢の日本人が定住していたかが分かります。最終的には数千人規模の日本人街が形成されたとされます。



日本列島各地から朝鮮半島の津々浦々に移住した日本人は、1945年8月15日の日本の敗戦による植民地支配の終焉とともに引き揚げを余儀なくされました。

日生の出身者も次々と故郷に戻ったのでしょう。親に連れられて朝鮮に渡って学齢期を過ごしたり、現地で生まれ育ったりした日本人も少なくありません。そうした人々が、多感な時期を過ごした朝鮮の地に「郷愁」を覚えるのは自然な感情でしょう。

 展示品の中には「再会を喜び合う旧友」と題した写真がありました。チマ・チョゴリ姿の高齢の女性が、頭の薄くなった背広姿の男性と握手し、互いに喜びの笑みを浮かべています。戦後だいぶ経ってから、方魚津を再訪した日生の住民が、現地で旧知の人と再会した時の様子を撮影したものでしょう。

歴史を背景に、日生町が合併した備前市は、方魚津のある蔚山市東区と文化交流協定を結び、コロナ禍前は相互訪問などの交流事業を実施しています。

2000年代半ばから2010年代のはじめ頃、小生が韓国旅行で方魚津付近を何度か通過した際、日本式家屋を目にした記憶があります。

 韓国の海沿いの町を訪ねると、その頃は日本式家屋を所々で目にしました。植民地支配期に日本人が暮らし、そのまま残して引き揚げた歴史の遺物です。

現地では、支配者だった日本の残滓という意味を込めて「敵産家屋」と呼ばれています。老朽化したこうした家屋を復元して「観光資源」として活用する動きもありますが、植民地支配した日本への反感から反対の声も根強いようです。 

ネット上で見つけた記事(蔚山新聞、2017年9月12日)には「最近、(蔚山市)東区役所が推進している旧日本人街の復元をめぐり、東区議会議員と地域の市民団体が『時代に逆行する親日歴史の美化事業』だと復元事業の中断の追及に乗り出した」とありました。東区役所が、現地の抗日運動の拠点だった学校の復元にはお金をかけず、方魚津に残る敵産家屋を買収して「日生通り」として復元しようとしているのはおかしいという内容です。

 歴史的な建物の評価は、歴史を見る立場や目線によって異なります。韓国に残るこうした遺産をどうするのかは、韓国の市民が決めるべきことであり、日本人が批判、非難するのは筋違いでしょう。私たちが心にとどめておくべきことは、日本の支配を想起させるものが今も韓国には残っており、植民地支配の記憶は、韓国の人々にとって決して過ぎ去ったむかしの出来事ではない、ということです。


 冬の日差しを浴びてキラキラと輝く穏やかな瀬戸内の海には、忘れてはならない歴史が潜んでいるのです。  


 

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

木浦。すみっこの港町に宿る歴史

韓牛とタコの「未知なる遭遇」 韓国の絶品の味を目指して。

戦争が全くなかった250余年 「韓流」使節団が寄港した港町