四国の西端にあった「ナバロンの要塞」

 

 水平線上に見える陸地は九州の大分県です。快晴の青空から降り注ぐ日差しは、とても師走とは思えない暖かさ。辺りは南国を思わせる鮮やかな緑の植生で覆われています。

 ここは四国最西端の地、佐田岬。

 九州の方に向かって左手が豊後水道や宇和海で、右手が瀬戸内海。岬の突端には白い灯台が立っています。大正7年(1918)に点灯したという「佐田岬灯台」はもう100年以上、海峡を通る船舶を見守り、安全航行を手助けしています。

 


岬のすぐそばには「御籠島(みかごじま)」という四国西端の島があり、灯台の立つ岬側と旧養魚池の淵を通って地続きになっています。

灯台の立つ崖とこの島の海側に、アーチ型の人工物らしき洞穴がそれぞれ2つずつ計4つくり貫いてあるのが目につきました。まるで、むかし見た第二次大戦のナチスドイツとの戦いを題材にした映画「ナバロンの要塞」に出てくる洞穴式の砲台のようだと思っていたら、実際にここにかつて「要塞」があったことを示す地元の伊方(いかた)町の説明板がありました。



 

「豊予海峡を挟む愛媛・大分両県沿岸には、戦時中に敵国艦隊の瀬戸内海侵入をふせぐために『豊予要塞』が建設されました。愛媛県側の佐田岬には、大正15年(1926)に『佐田岬第一砲台』、昭和2年(1927)に『佐田岬第二砲台』が完成します。しかし一度も実戦で使用されることなく、第一砲台は昭和19年(1944)、第二砲台は昭和9年に、火砲が撤去されました。しかし本土決戦が現実味を帯びてきた昭和20年(1945)、再びこの洞窟式砲台が整備されたのです。」

太平洋戦争末期、戦況が悪化する中で日本軍は米軍との「本土決戦」を準備していたとされます。佐田岬の洞穴式砲台は、瀬戸内海に通じる豊予海峡まで敵艦隊が侵攻してくることを想定して造られたのでしょう。



当時は素掘りでつくったという島側の2つの洞穴は崩落防止のためコンクリートで補強され、観光客が自由に見学できるようになっています。うち一方には当時使われていたものと同様と思われる、錆で朽ち果てた砲台とレプリカの大砲「三八式十二糎榴弾砲」が展示してありました。


灯台から島へと崖を下る遊歩道のそばには「忠魂碑」が立っていました。石碑の裏面には3人の戦死者の氏名とともに「昭和二十年六月 事故ニ依リ殉職」等と刻まれていました。砲撃訓練のさなかに暴発事故でも起きて命を奪われたのでしょうか。冥福を祈ります。



佐田岬と九州の間の狭い海峡は、瀬戸内海の玄関口にあたります。ということは太平洋戦争の時代、広島の呉で建造された戦艦大和をはじめ、連合艦隊の艦艇の多くがこの佐田岬灯台前の海峡を通り、南方の海を目指したのでしょう。多くの艦艇の出撃を見送った佐田岬灯台ですが、帰還する姿を見守ることはできませんでした。戦艦大和をはじめ多くの艦艇が、大勢の船員とともに南の海に沈没しました。

穏やかな海を見渡す四国西端の岬にも、忘れてはならない戦争の痕跡が残っています。

 



 佐田岬半島は日本一細長いといわれ、40キロほど角のように突き出た形をしています。それだけアクセスは限られています。小生は2022年12月の休日、愛媛県に駐在する勤務先の後輩に車を運転してもらい、初めて訪ねました。

半島を貫く国道197号は背骨の稜線をぬうように標高の高いところを通っていきます。途中、四国電力の伊方原子力発電所のドーム型建屋が一瞬見えました。日本一細長い半島には原発があるのです。もしここで放射線漏出を伴う事故が起きれば、岬の先の方の集落で暮らす住民は陸路で逃げようがない、と実感しました。

大分県の佐賀関と結ぶ「国道九四フェリー」が発着する三崎港までは、JR八幡浜駅(約1時間)や松山駅前(約3時間)から伊予鉄バスがはしっています。国道が整備されているのは三崎港付近まで。道幅の細い県道をしばらく車ではしり、行き止まりとなる駐車場で車をとめ、遊歩道を小一時間歩いた所に佐田岬灯台はあります。

案内板を目にすると、九州との近さを実感します。訪れた日は冬の快晴。別府湾にのぞむ大分臨海工業地帯と思われる煙突も見えました。



今回の旅では佐田岬半島に向かう前夜、松山市近郊の内子町にある「石畳の宿」という民宿にとまりました。囲炉裏のある古民家。地元に暮らすスタッフの女性手作りの料理には「地産地消」の食材がふんだんに使われ、穏やかな里山の味を満喫できました。里山にひかれる旅人にはおすすめの静かな宿です。





 

 

 

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