「韓流」の源流?!各地で芽吹く柳宗悦の「民藝」の種

 

  岡山県倉敷市、鳥取県鳥取市、長野県松本市。いずれも歴史のある町ですが、さて、この3つのまちに共通するものは何でしょうか。正解は「民芸」の名を関した美術館があることです。

    


 「民芸」とは、高名な芸術家がつくった作品だけが芸術ではなく、無名の職人が作り、民衆が日々の生活で使う工芸品にこそ美が宿るという芸術思想です。大正、昭和期に活躍した思想家の柳宗悦(やなぎ・むねよし、1889年~1961年)が提唱しました。

 柳宗悦は、朝鮮で生活していた浅川伯教、巧(あさかわ・のりたか、たくみ)兄弟とともに、白磁をはじめとする朝鮮の民衆の暮らしに根ざした工芸品の魅力とそれを育んだ生活様式を広く日本列島にも伝えようと東京で美術展を開くなどし、朝鮮の生活文化の保護に尽力します。

朝鮮王宮の正門ともいえる光化門が破壊される危機にあると知るや、1922年(大正11年)に雑誌「改造」に「失われんとする一朝鮮建築のために」と題した一文を発表し、その保全を訴えたことでも知られています。

植民地支配体制のもとで「内鮮一体」を標語に掲げて同化政策を推し進め、日本語の強要や創氏改名を通して朝鮮の文化や生活様式を否定、抹殺しようとした時代風潮の中、朝鮮の文化を尊重し、その保全を訴えた勇気と誠意は、いくら時がたっても色あせず、師として見習いたいものです。

生活工芸品の中に宿る「美」という考え方は、芸術とは瀟洒な贅沢品であり、高貴なひとびとが楽しむものという既成概念への挑戦でもありました。そんな柳の思想に共感し、素朴な民芸品を収集した有志の人々が列島各地にいました。そんな貴重な収集品を収蔵し、それぞれの地域で民芸運動の拠点となった場を訪ねました。


   白壁の旧商家が軒を連ねる岡山県倉敷市の美観地区。その一角に「倉敷民藝館」はあります。パンフレット等の説明によると、江戸時代後期に建てられた米蔵を活用して、1948年(昭和23年)に開館しました。柳宗悦が手かげた東京・駒場の日本民芸館が1936年(昭和11年)に開館したのに次いで、日本で2番目にできた民芸館とのことです。その誕生には、倉敷を代表する実業家の大原家が深く関わっています。

倉敷の美観地区を代表する白亜の大原美術館。その創立者としても知られる倉敷出身の実業家・大原孫三郎(おおはら・まごさぶろう)は、地域の工芸品の良さを広める活動にかかわる中で柳宗悦と出会って民藝運動に賛同し、経済的支援もします。孫三郎は、柳がすすめた日本民藝館の建設のため多額の寄付もしたそうです。

孫三郎の息子の綜一郎(そういちろう)も父の意志を継ぎ、柳らの民芸運動を支援しました。戦後まもない時代、「正しく強く美しい平和日本の生活基調を再建する」ためとして、岡山県民芸協会を設立。倉敷の地にも中心となる場を建てたいと考え、美術家の外村吉之介を招へいします。大原綜一郎の財政支援のもと、のちに初代館長となる外村が中心となって工芸品を収集し、「倉敷民藝館」は誕生しました。

倉敷民藝館には朝鮮半島由来の工芸品(民画、陶磁器、木工品、石工品、金工品等)も多数収蔵されています。2021年12月から2022年11月にかけては企画展「李朝の工芸」が会期を2回に分けて開催され、白磁を代表とする朝鮮王朝時代の工芸品が展示されています。

                         





いずれも作者は名もない職人です。儒教文化の強かった朝鮮王朝で、手をつかう工芸職人が歴史に名を刻むことはありませんでした。時と場所を超えて、多くの人が美術品として鑑賞していることを、作者の職人は天からどんな思いで眺めているのでしょうか。

 

鳥取市にある「鳥取民藝美術館」は、JR鳥取駅から徒歩5分余り。白壁の蔵様式の建物に、木の看板がかかっています。


美術館でもらったパンフレットによると、1949年(昭和24年)に鳥取の医師、吉田璋也が、柳宗悦が見いだした「民藝の美」の思想を普及し、新たな創作活動の指針ともなる、鳥取の民芸運動の拠点として創設しました。

朝鮮時代の陶磁器をはじめ、日本、中国、西洋や地元・鳥取地方の古民芸品、吉田がつくった新作民芸など収蔵品は総数5千点以上に及ぶとのことです。

吉田は新潟医学専門学校(現・新潟大医学部)に入学し、柳らが関わっていた雑誌「白樺」に共鳴して同期生らと文芸誌「アダム」を刊行します。1920年(大正9年)には、友人らと千葉県我孫子の柳の自宅を訪ねてもいます。医学生でありながらも、文化芸術に対する関心の深さがうかがえます。

柳が民芸運動を提唱すると、1931年(昭和6年)ごろには地元の職人らに呼びかけて団体をつくり、鳥取を拠点にした民芸運動を起こします。その活動は本業の医師のかたわら、生涯続きました。柳の思想に共感し、自ら実践した吉田の存在がなければ、鳥取の地に「民芸」を掲げた美術館が誕生することもなかったかも知れません。


北アルプスの山並みを望む長野県松本市。遠く常念岳をのぞむ市郊外にある「松本民芸館」も、地元で「ちきりや工芸店」を経営していた初代オーナーの故・丸山太郎が、柳が提唱した民芸運動に共鳴して集めた国内外の民芸コレクションを収蔵した資料館です。

2022年7月に筆者が訪ねた時、数は少ないものの朝鮮半島由来の工芸品の展示もありました。また、資料館発足の源を物語るかのように、柳と丸山が一緒におさまった白黒写真も飾られていました。

丸山は1983年(昭和58年)、この民芸館を約6000点に及ぶコレクションとあわせて松本市にそっくり寄付します。丸山の遺志を継ぎ、市立博物館の付属施設として市が運営しています。



 「民芸」という柳宗悦の思想に共感し、戦後、それぞれの地域で私財を投じて文化拠点を築いた篤志家がいたおかげで、私たちは今日、芸術品として鑑賞することができます。民芸資料館に集められた手仕事の結晶ともいえる数々の工芸品は、その後の生産工程の合理化で職人の存在そのものが稀少になる中、今となってはひとつひとつが大変貴重なものです。その価値に気づき、文化として後世に遺したいと献身した先人たちに感謝の意を表したいと思います。

         (敬称略)

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