「二十四の瞳」は平和の象徴

 

瀬戸内海に浮かぶ小豆島は、映画のロケ地としても知られています。

最近では「魔女の宅急便」などが有名かも知れませんが、代表作といえば、やはり小豆島出身の作家、壺井栄の小説を原作にした「二十四の瞳」でしょう。

これまでに何度も映画化、ドラマ化されていますが、海外の映画関係者にも広く知られているのは、俳優高峰秀子が「大石先生」役を演じた1954年(昭和29年)公開の最初の映画(松竹)です。当時、映画の撮影地となった木造校舎が、いまも残っています。

豆島の南側、内海(うちのみ)湾は、湾をとり囲むように、弧のように岬が突き出ています。岬の突端近くの海沿いに、その古い木造校舎「岬の分教場」はありました。

敷地に立つ説明板によれば、校舎は1902年(明治35年)8月、田浦尋常小学校として建造されました。2つの教室に教育住宅をあわせもつ瓦葺き平屋建てで、1910年(明治43年)からは、苗羽小学校田村分校と名称をかえました。

戦後、「二十四の瞳」(木下恵介監督)のロケ地になり、脚光を浴びたことで、古い木造校舎がコンクリート造りに建て替えられることもありませんでした。1971年(昭和46年)に本校と統合されて廃校になるまで、実際に校舎として使われていた、とのことです。

廃校後は保存会ができ、明治期の学校建築が保存されてきました。地元の旧内海町教育委員会が、1973年(昭和48年)に町文化財に指定しています。



約120年に建てられた木造校舎がいまも残っていることに驚きを覚えます。

校舎は一般公開されていますが、コロナ禍で緊急事態宣言が出た折などは休館していました。

私が訪れたのは2020年3月末です。校舎の内部に入ると、約半世紀前の廃校時の姿をそのままとどめているという教室がありました。教壇は木製。子どもが使っただろう背の低い木製の机はずいぶん幅が広いです。二人一組で使ったのでしょうか。



壁には映画撮影時に撮ったとみられる白黒写真のパネルが並んでいます。

 校舎内には「子ども達・教師・教員をめざす方に宛てた教師、教師OBからのメッセージ」という白いボードが設置され、マジックペンなどで書き記されたメッセージで埋まっていました。全国各地から教職関係者がここを訪れ、教育の原点に触れるのでしょうか。

「岬の分教場」のほど近くには「二十四の瞳映画村」というテーマパークもあります。敷地の一角には「壺井栄文学館」が立ち、「二十四の瞳」の原稿や生前の愛用品、数々の初版本などが展示されています。

 


 壺井栄が1952年(昭和27年)に発表した小説「二十四の瞳」は、瀬戸内海に面した分校に赴任した「大石先生」と12人の子どもたちが主人公で、戦前から敗戦後までを描いた作品です。

 女学校を出た大石先生が分校に赴任するのは1928年(昭和3年)、自転車で颯爽と学校に通う先生は地元の大人の好奇の目に悩みながらも、子どもたちとは打ち解け、慕われます。昭和恐慌をへて軍国主義色が色濃くなる時代です。貧富の差が広がるなか、やがて学校に通えなくなった子ども出てきます。先生はやがて結婚し、軍国主義教育に背を向けて教職を辞めます。

やがて太平洋戦争が始まり、12人のこどもたちのうち男の子は次々と戦地に送られました。先生の夫も、教え子も戦地で命を奪われます。

戦後、平和な日々が戻り、大石先生は再び、分校の教壇に立ちます。教え子の中にはかつての教え子の子どももおり、時の流れを感じさせます。

最後のシーンはかつての教え子たちとの集まりです。戦争で失明した磯吉が「この写真は見えるんじゃ」と言って、写真の上の同級生をひとひとり指さし、名前を挙げていきます。

子どもの頃、浜辺の一本松の前で先生を囲んで撮った一枚の写真。目の前が闇の磯吉の脳裏には、平和で楽しかった幼い日々の光景が刻まれているのでしょう。でも、視力を失った磯吉が仲間の名前を挙げながら指さす箇所は、どうしてもずれてしまいます。その様子を目にした大石先生のほおを、涙の筋が流れます。

 壺井栄がこの小説に込めたいちばんのメッセージは「反戦平和」だと、私は感じました。

 穏やかな瀬戸内の海に囲まれた小豆島も、明治から昭和の戦争とは無縁ではありませんでした。島の内陸部の集落を巡ると、日露戦争の従軍記念の巨大な石碑が建っています。

 太平洋戦争中には「若潮部隊」と呼ばれる水上特攻の訓練部隊もありました。

 




  小豆島の玄関口、土庄港の近くには、大石先生と12人の教え子を題材にした平和の碑像が建っています。

  「二十四の瞳」は、平和の尊さを訴え続ける不朽の名作です。

   


   

 

 

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