小豆島にあった「水上特攻隊」

 

 オリーブの樹が風に揺れる瀬戸内海の小豆島。穏やかな海に囲まれた島には太平洋戦争末期、「若潮部隊」と呼ばれる陸軍部隊があり、二十歳前後の兵隊たちが「水上特攻」の厳しい訓練を重ねていました。

高松港や宇野港(岡山)への航路がある島の玄関口、土庄港に近い淵崎地区に「オリーブタウン」という島で最大規模のショッピングモールがあります。かつての紡績工場の跡地ですが、戦争末期に接収され、兵舎に使われていました。

小豆島で訓練をしていた部隊は正式には「陸軍船舶特別幹部候補生」といいますが、島のひとびとには別称の「若潮部隊」の名で記憶に残っています。



島ではどんな訓練をしていたのでしょうか。特別幹部候補生1期生(約1890人)のひとりで、奈良県に住む中溝二郎さんに話をうかがう機会がありました。

大阪出身の中溝さんは戦時中、高知県の須崎にあった金属精錬工場で働いていました。そこで船舶兵の募集広告を目にし、友人と一緒に「応募」したそうです。当時は18歳。若い男は戦争に行け、という社会の空気圧が強かったのだとうと察します。戦時色が濃くなるなか、いずれ徴兵されるなら「はやく(兵隊に)行かなあかん」という思いがあったと振り返ります。

1944(昭和19)年4月、全国各地から集まった同年代の仲間らとともに、中溝さんは瀬戸内海に面する香川県の豊浜町(現・観音寺市)にあった仮兵舎に入隊しました。間もなく小豆島に移り、「大発(だいはつ)」と呼ばれる上陸用舟艇の操舵(そうだ)などの訓練を受けました。

8月下旬に訓練が一通り終わると、中溝さんは休暇をもらって大阪の実家にいったん帰りました。が、数日後には再び小豆島に戻ってきました。背負っている任務について、家族には一言も話さなかったといいます。

島の部隊に戻ると、「海上挺進(ていしん)戦隊」としての出撃に向けた秘密の実戦訓練が始まりました。

耐水ベニヤ板でできた舟艇の両脇に120キロずつ爆雷を取りつけて敵船に向けて突撃し、最接近したら爆弾を投下、急速にUターンして船から離れる。それが挺進戦隊の「戦術」でした。


ただ、長さ5メートル余、幅2メートル弱の小さな舟艇の装備には、まともな攻撃兵器などありませんでした。敵にみつかれば、すぐに猛攻撃を受けるでしょう。自身が落とした爆弾の衝撃も受けるおそれがあります。戦闘機での特攻攻撃のように、爆弾をつんだまま敵艦につっこむ攻撃と比べれば生還の可能性がなかったわけではありませんが、敵の砲火の中に突っ込む、事実上の体当たり攻撃だったといえるでしょう。

秘密の訓練の場所は、小豆島に近い豊島(てしま)の西南方の海でした。島民らが目にしないよう、秘密保持のため、訓練場周辺を憲兵が見張っていたといいます。夜間演習で豊島付近を一周したのが、訓練の締めくくりでした。

中溝さんは「海上挺進戦隊第9戦隊」に編成され、輸送船でいよいよ戦地に向かうことになりました。途中、台湾南方のバシー海峡を航行中、敵の魚雷攻撃で船が沈み、別の船に救助されたりもしながら、11月、目的地のフィリピンにたどり着きました。

中溝さんの戦隊はルソン島の東岸部に配備され、敵の上陸に備えて日々、舟艇の整備や演習に励んでいました。

ある日、敵の機動艦隊が接近しているとの情報が入り、中溝さんに「出撃準備命令」が下ります。小豆島近海での訓練では「やってやるぞ」と勇んでいたものの、いざ出撃が目の前に迫ると、緊張と恐怖感に襲われたそうです。なぜ死なねばならないのか、という無念さがわき、家族の姿が頭に浮かんだそうです。

結局、中溝さんは特攻艇で出撃することはありませんでしたが、陸上での戦闘に加わりました。敵陣地への斬り込み攻撃で銃撃を受け、左腕に貫通の負傷を負いました。熱帯のジャングルを転々とし、戦争が終わったと知ったのは、1945(昭和20)年8月15日の後だったと言います。米軍に投降して捕虜収容所で過ごし、11月に復員しました。 

海上挺進戦隊は、フィリピンや台湾、沖縄へ出撃。記録では計3千人以上が戦地に派遣され、6割近くが戦死しました。「水上特攻」だけでなく、陸上戦で敵弾に倒れたり、戦地に向かう途中に船が撃沈されたりして多くの若者が命を落としました。

「なんとか帰って来られたんは、運がよかったから」。戦争を生きのびた中溝さんの言葉です。

 かつて「若潮部隊」の兵舎があった小豆島の淵崎地区の小高い山の上に、富丘八幡神社があります。境内に1973(昭和48)年、「若潮の塔」という慰霊碑が建立されました。毎年11月23日には慰霊祭が開かれています。



塔の周囲には、部隊員をあしらったブロンズ像「陸軍船舶特幹生の像」があります。海上挺身隊の特攻艇で使われていたという、エンジンも展示されています。表面を覆うさびが、戦争からの時の流れを物語っています。

若潮の塔からは眼下に瀬戸内海が見渡せます。穏やかな海も、戦争とは無縁ではなかったことを忘れてはなりません。

小豆島の岬の小学校が舞台になった壺井栄の小説「二十四の瞳」も、テーマは反戦です。

小豆島は、平和の尊さをいまに伝える島です。

 


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