天災は忘れられたる頃来る
東日本大震災から間もなく10年になります。
2011年3月11日、当時、私は東京にいました。4月1日付の韓国への転勤が決まり、挨拶を兼ねて知り合いの韓国人と新橋かいわで昼食をとり、築地にある社屋に戻った時でした。エレベーターで上階に上がろうとしたところ突然、大きな揺れに襲われ、エレベーターはすべて止まりました。階段で職場に戻り、窓外を見ると、湾岸のビルの屋上から黒煙があがっていました。その後、テレビでは津波に襲われる東北沿岸の信じられない光景が次々と目に飛び込んできました。思わず、西宮や神戸で見た光景が頭に浮かびました。
1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きました。当日、私は当時の勤務先の秋田から、応援要員として神戸に派遣されることになり、秋田空港から飛び立ちました。夕闇が迫るなか、大阪伊丹空港へと着陸態勢に入った飛行機の窓からは、神戸の町のあちこちから空高く黒煙があがり、闇の中で赤黒い炎か町をのむかのように広がっています。まるで無差別空襲を受けたかのような光景でした。乗客はみな黙り込んでいました。
あれから四半世紀余りが過ぎ、神戸の町は復興したかのように見えます。表向きは震災などなかったかのようにも見え、震災の記憶は年々薄れていきます。
東日本大震災の教訓も同じでしょう。発生から10年を前に、最近は関連の報道を目にする機会が増えましたが、福島原発事故の原因究明や後処理も済んでいないなか、原発再稼働を推し進める政府や各電力会社の姿を見ていると、震災の教訓が社会づくりに生かされているのか、首をかしげざるを得ません。
天災は忘れたころにやって来る。
災害の教訓を決して忘れてはならないという、この呼びかけは、物理学者の寺田寅彦が残した言葉です。
寺田は4才から19才まで、高知で育ち、多感な時期を過ごしました。1881年(明治14年)から1896年(明治29)年にあたります。彼が過ごした邸宅は復元され、「高知市寺田寅彦記念館」(高知市小津町4―5)として、無料で一般公開されています。
早春が近づいた雨の日、記念館を訪ねてみました。高知城趾の北側、大川沿いの住宅街の中にある敷地の入り口の石垣に、寺田寅彦が発したという元の言葉が刻まれています。
天災は忘れられたる頃来る。
災害の教訓を忘れることなく、常に備えをという呼びかけです。
19才で進んだ熊本第五高校で夏目漱石に師事し、英語と俳句を学んだ寺田寅彦は、絵筆をとり、バイオリンやチェロを手にするなど多才な偉人でした。数多くの随筆でも知られています。
実験物理学者である寺田寅彦が、地震や防災に関する研究を始めたのは1923年(大正11年)の関東大震災がきっかけでした。火災による大旋風で犠牲がうまれたのを知り、渦の研究に取り組みました。砂がどうやって崩れるかも調べました。
自然を征服するのではなく、自然の摂理を知ることで、犠牲を減らす。
防災を考える上で、忘れてはならない姿勢です。
高知城趾にある高知県立文学館には「寺田寅彦記念室」があり、生前の愛用品などが展示されています。
ツバキの花はなぜ、うつ向きに落ち始めても、地上に落下するとみな花が上の方を向いているのか。その謎を解明するため、円錐形で実験したときの写真は、おもしろいなあと感じました。この空中反転作用は、花冠の特有な形態による空気の抵抗のはたらき方、花の重心の位置、花の慣性能率などで決まる、とのことです。何げない自然の移ろいにも物理の法則が隠れているのです。
寺田が10代後半のもっとも多感なときを過ごした母校、高知県立追手門高校(当時は県立尋常中学校)と道を挟んだ図書館「オーテピア」の前に、寺田寅彦の銅像が立っています。右手にツバキの花をもち、足もとにもツバキの花が置かれています。生誕140年を記念して、2018年の図書館開館にあわせて高知の人々が建立しました。
建立記には「南海トラフ巨大地震への警鐘を鳴らし、科学する心の大切さを伝えるため」とあります。
高知県や徳島県の太平洋岸では、南海トラフ地震発生時に備えた「津波避難タワー」をあちこちで見かけます。
人類が自然を制御、掌握し、都合のいいように改変できるという傲慢な発想と、それに基づく無尽蔵な開発が、今日の感染症の世界的な感染拡大や地球温暖化となって表れているように感じます。
「ねえ君ふしぎだと思いませんか」
寺田寅彦は学生や若い研究者に折りに触れてこう語りかけたそうです。
自然の前に謙虚であり、自然から学ぶ姿勢が求められているのです。
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