もしも瀬戸大橋がなかったら!?
四国はかつて陸の「孤島」でした。本州側からは船で渡らねばなりませんでした。
旧国鉄が宇野線の開通とともに、岡山県の宇野港と香川県の高松港を結ぶ宇高連絡船の運航を始めたのは1910年(明治43年)のことです。連絡船が発着する港だったことから、高松は四国の玄関口となりました。
私も幼少期(1970年代後半ごろ)、祖父に連れられて宇高連絡船で岡山から高松に渡り、連絡船の上でうどんを食べた記憶があります。
長い歴史をもつ連絡船ですが、悲劇も起きました。1955年(昭和30年)に起きた紫雲丸沈没事故です。僚船と衝突したこの連絡船には、修学旅行で本州に向かう大勢の小中学生らが乗っていました。衝突で船はあっという間に沈み、168人が犠牲になりました。
海難事故のおそれに加え、悪天候になれば欠航になることもあり、四国の人々にとって本州と「陸続き」になることは悲願だったと言えます。
そんな四国400万人の人々の積年の切実な願いをかなえたのが、瀬戸大橋です。
瀬戸大橋は、香川県の坂出から岡山県の児島まで、5つの島を結ぶ6本の橋の総称で、それぞれの橋に名前がついています。6つの橋の長さをあわせると、9368メートルにもなり、高架橋部分を含めた全長は約12・3キロに及びます。
本州と四国を結ぶという前例のない大工事は1978年(昭和53年)10月に始まり、9年半の歳月を費やして1988年(昭和63年)4月に完成しました。建設費は約1兆1200億円という国家的プロジェクトでした。
瀬戸大橋の特徴は、道路と鉄道の2階立て構造になっていることでしょう。
本州と四国を結ぶ陸路はご存じの通り、3ルートがあります。徳島の鳴門から海峡を渡り、淡路島を通って明石海峡大橋を渡るルート、愛媛県の今治から広島県の尾道までしまない海道を渡るルートがありますが、列車がはしっているのは瀬戸大橋だけです。瀬戸大橋には50万ボルト(V)の電力ケーブルや、情報通信用の光ファイバーケーブルも通っており、エネルギーや情報通信網でも欠かせない存在です。
瀬戸大橋は、人やものの流れを大きく変えました。
JR高松駅から岡山駅までは瀬戸大橋を通れば快速マリンライナーで約1時間でつきます。瀬戸内海を挟む香川県と岡山県はひとつの通勤、通学圏となり、毎日のように列車で橋を行き来している人も少なくありません。
四国の食材や加工品が、トラック輸送でより早く本州の消費地に届けられるようにもなりました。京阪神や岡山、広島など人口の多い地域を、四国の生産者や事業者は、消費地としてとりこみやすくなりました。
ただ、建設から30年以上が経ち、潮風にさらされ続けた橋は補修が必要になっています。橋脚など随所で修繕工事をしているのを見かけます。
本州と陸続きになったことが、進学や就職をきっかけにした四国離れに一層拍車をかけた、との見方もあります。
ただ、瀬戸大橋は四国をはじめ地域の人々にとっていまや、生活に欠かせないインフラとなっています。補修をしながらもなんとか維持し、長持ちさせていく必要があるでしょう。
難工事の瀬戸大大橋の建設時には、超音波による海底の無線発破や、重さ600トンの橋桁を2隻の巨大クレーン船で一挙に架設するなど、当時は世界で初めてとされる工法や技術が用いられたようです。
瀬戸大橋を長生きさせるため、たくさんの技術者がこれから知恵を絞ることになるでしょう。
瀬戸大橋がどうやって誕生し、どうやってできたかを知りたければ、坂出市の海辺にある「瀬戸大橋記念館」(入場無料)がおすすめです。本数は少ないですが、JR坂出駅からコミュニティバス(片道370円)でも行けます。
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