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伊吹島 イリコとさくらの島

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   讃岐うどんで欠かせないのがなんといっても、イリコの出汁です。そのイリコの産地として有名なのが、瀬戸内海の燧灘(ひうちなだ)に浮かぶ伊吹島です。   ただ、春先に島に足を運んでみると、もっと印象深いものがありました。海沿いの桜並木です。  島の北西端、海に面した断崖の岩穴にまつっている波切不動尊に続く海沿いの参道沿いに、淡い桃色の桜並木が広がっています。青い海と新緑との色のコントラストはまるでメルヘンの世界のよう。海から眺めたら、山肌を覆うように桃色が広がっているのでしょう。  風が海から島へとかけあがってくる音と、波が打ち寄せる音と、鳥のさえずりと。辺りにひとはだれもおらず、人工物の音もなにも聞こえません。  春をひとり占めしているような気分になりました。  伊吹島は香川県の西端、観音寺市にあります。観音寺の名所、琴弾公園から眺めると、ちょうど真西の方向に伊吹島が海に浮かんでいます。まさに西方浄土ともいえる島です。  観音寺港から伊吹島の玄関口、真浦港へは1日4便のフェリーが運航しています。   港は JR 予讃線の観音寺駅から徒歩だと20~30分。私は日帰り旅で、観音寺港11:00発、伊吹島の真浦港17:20発を利用しました。島までの所要時間は約25分。運賃は片道600円、往復1200円です。  島の南側の真浦港を中心に、海沿いにはイリコをつくるカタクチイワシの加工工場が所狭し、と立ち並んでします。  島に平地は少なく、真浦港に近い島の一角に山肌を覆うように瓦屋根の古民家が立ち並んでいます。急勾配で幅の狭い道が多いためでしょうか、島民の足はバイクのようです。港付近にずらりと駐車され、船からおりた乗客が次々とバイクにまたがって坂をかけあげっていきました。  瀬戸内海を見渡す海の交通の要衝にある伊吹島には古くから人が定住したようです。  真浦港から西の方へと坂道を上がると、港を見渡す所に歌碑がたっています。国語学者の金田一晴彦氏が詠んだ歌が彫られていました。 緑濃き 豊かな島や かかる地を 故郷にもたば 幸せならん  裏側の説明書きによると、伊吹島のことばのアクセントについて1965年の国語学会で報告され、1983年には金田一先生も来島し、全国でたった1カ所、平安、鎌倉時代の京都のアクセントが残っていることが確認された、と

一日歩きお遍路さん

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四国八十八カ所霊場をめぐる遍路の旅。 約1400キロにも及ぶとされる遍路道を、いつの日か、1番札所から88番札所まで歩き通し、「結願(けちがん)」を果たすのが夢です。しかし、雇われの身分では連続してとれる休暇にも限りがあり、なかなか叶いません。 そこで、取り組んでいるのが「一日歩き遍路」です。 列車やバスといった公共交通機関を利用して、その日のスタートの札所近くまで行き、一日で行けるところまで歩き通します。 遍路を開祖した弘法大師空海には叱られそうですが、自動車で回るよりは、むかしのお遍路さんの気分に少しでも近づけるのではないかと、休みを利用して時々挑んでいます。   四国遍路をすべて巡ったわけではないので断言はできませんが、比較的短い時間でいちばん多くの札所を回れるのが、13番札所から17番札所までの遍路道ではないかと思います。 いずれも、徳島市西部にある札所です。 私が歩いてみたのは2021年2月。立春を少し過ぎた、比較的穏やかな気候の週末でした。 JR徳島駅前の13番バス乗り場から、午前10時15分発の神山高校行きのバスに乗り、約半時間で一の宮札所前につきます。バス停の名の由来である一宮神社は、阿波国の総鎮守です。戦国時代、土佐の長宗我部氏が阿波に攻め入ったさい、社殿がすべて焼失してしまい、のちに阿波を治めた蜂須賀氏の庇護を受けて再興されたそうです。 13番札所の大日寺は、県道21号を挟んで神社と向かい合っています。かつては一宮寺とも呼ばれたそうで、明治時代の神仏分離令で独立した、と説明にありました。 大日寺の近くには、お遍路さんのための宿がいくつかあります。 ここから鮎喰川(あくいがわ)という吉野川の支流沿いに広がる平野部を、東の方へと歩いていきます。 歩き遍路のため、道ばたに矢印で記した道標が立っていたり、シールが街路灯にはられていたりします。太陽の位置を見上げながら東の方へと大まかな方角を意識し、道案内に従って歩けば、なんとか次の札所にたどり着くことができます。車が激しく行き交い、否応にも排気ガスを吸ってしまう車道沿いを歩くよりも、気分はいいです。 キャベツ畑が広がる穏やかな田園地帯を歩いていくと、14番札所・常楽寺、15番札所・国分寺にたどりつきます。 阿波の国の山並みは、なめらかに尾根筋が延びて

天災は忘れられたる頃来る

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 東日本大震災から間もなく10年になります。  2011年3月11日、当時、私は東京にいました。4月1日付の韓国への転勤が決まり、挨拶を兼ねて知り合いの韓国人と新橋かいわで昼食をとり、築地にある社屋に戻った時でした。エレベーターで上階に上がろうとしたところ突然、大きな揺れに襲われ、エレベーターはすべて止まりました。階段で職場に戻り、窓外を見ると、湾岸のビルの屋上から黒煙があがっていました。その後、テレビでは津波に襲われる東北沿岸の信じられない光景が次々と目に飛び込んできました。思わず、西宮や神戸で見た光景が頭に浮かびました。 1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きました。当日、私は当時の勤務先の秋田から、応援要員として神戸に派遣されることになり、秋田空港から飛び立ちました。夕闇が迫るなか、大阪伊丹空港へと着陸態勢に入った飛行機の窓からは、神戸の町のあちこちから空高く黒煙があがり、闇の中で赤黒い炎か町をのむかのように広がっています。まるで無差別空襲を受けたかのような光景でした。乗客はみな黙り込んでいました。 あれから四半世紀余りが過ぎ、神戸の町は復興したかのように見えます。表向きは震災などなかったかのようにも見え、震災の記憶は年々薄れていきます。 東日本大震災の教訓も同じでしょう。発生から10年を前に、最近は関連の報道を目にする機会が増えましたが、福島原発事故の原因究明や後処理も済んでいないなか、原発再稼働を推し進める政府や各電力会社の姿を見ていると、震災の教訓が社会づくりに生かされているのか、首をかしげざるを得ません。 天災は忘れたころにやって来る。 災害の教訓を決して忘れてはならないという、この呼びかけは、物理学者の寺田寅彦が残した言葉です。 寺田は4才から19才まで、高知で育ち、多感な時期を過ごしました。1881年(明治14年)から1896年(明治29)年にあたります。彼が過ごした邸宅は復元され、「高知市寺田寅彦記念館」(高知市小津町4―5)として、無料で一般公開されています。 早春が近づいた雨の日、記念館を訪ねてみました。高知城趾の北側、大川沿いの住宅街の中にある敷地の入り口の石垣に、寺田寅彦が発したという元の言葉が刻まれています。 天災は忘れられたる頃来る。 災害の教訓を忘れることなく、常に備えをという呼びかけです。

もしも瀬戸大橋がなかったら!?

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   四国はかつて陸の「孤島」でした。本州側からは船で渡らねばなりませんでした。  旧国鉄が宇野線の開通とともに、岡山県の宇野港と香川県の高松港を結ぶ宇高連絡船の運航を始めたのは1910年(明治43年)のことです。連絡船が発着する港だったことから、高松は四国の玄関口となりました。  私も幼少期(1970年代後半ごろ)、祖父に連れられて宇高連絡船で岡山から高松に渡り、連絡船の上でうどんを食べた記憶があります。  長い歴史をもつ連絡船ですが、悲劇も起きました。1955年(昭和30年)に起きた紫雲丸沈没事故です。僚船と衝突したこの連絡船には、修学旅行で本州に向かう大勢の小中学生らが乗っていました。衝突で船はあっという間に沈み、168人が犠牲になりました。  海難事故のおそれに加え、悪天候になれば欠航になることもあり、四国の人々にとって本州と「陸続き」になることは悲願だったと言えます。  そんな四国400万人の人々の積年の切実な願いをかなえ たのが、瀬戸大橋です。    瀬戸大橋は、香川県の坂出から岡山県の児島まで、5つの島を結ぶ6本の橋の総称で、それぞれの橋に名前がついています。6つの橋の長さをあわせると、9368メートルにもなり、高架橋部分を含めた全長は約12・3キロに及びます。  本州と四国を結ぶという 前例のない大工事は1978年(昭和53年)10月に始まり、9年半の歳月を費やして1988年(昭和63年)4月に完成しました。建設費は約1兆1200億円という国家的プロジェクトでした。  瀬戸大橋の特徴は、道路と鉄道の2階立て構造になっていることでしょう。    本州と四国を結ぶ陸路はご存じの通り、 3ルートがあります。徳島の鳴門から海峡を渡り、淡路島を通って明石海峡大橋を渡るルート、愛媛県の今治から広島県の尾道までしまない海道を渡るルートがありますが、列車がはしっている のは瀬戸大橋だけです。瀬戸大橋には50万ボルト(V)の電力ケーブルや、情報通信用の光ファイバーケーブルも通っており、エネルギーや情報通信網でも欠かせない存在です。  瀬戸大橋は、 人やものの流れを大きく変えました。 JR高松駅から岡山駅までは瀬戸大橋を通れば快速マリンライナーで約1時間でつきます。瀬戸内海を挟む香川県と岡山県はひとつの通勤、通学圏となり、毎日のように