黒部ダムで感じた日本社会の「闇」
2022年8月初旬、立山・黒部アルペンルートを初めて「縦走」しました。
いや、正確には、立山の玄関口から山の下を貫くトンネルをはしるトロリーバスやロープウェイ、ケーブルカーを黒部ダムまで乗り継いだ、というのが正しい表現でしょうか。標高2000メートルを超す本来は難所であるはずの高地をたどっているにもかかわらず、実際にはほとんど歩いていないわけですから。
立山・黒部アルペンルートというのは、日本海をのぞむ富山県の立山から黒部ダムを通り、長野県の扇沢にいたる観光ルートです。小生が利用した交通手段と経路を時系列で紹介します。
○立山ケーブルカー 立山 9時40分発→美女平 9時47分着
○立山高原バス 美女平10時20分発→室堂 11時10分着
○立山トンネトロリーバス 室堂13時00分発→大観峰13時10分着
○立山ロープウェイ 大観峰13時40分発→黒部平13時47分着
○黒部ケーブルカー 黒部平14時20分発→黒部湖14時25分着
○関電トンネル電気バス 黒部ダム15時05分発→扇沢 15時21分着
靴をまったく汚すこともなく、立山連峰、後立山連峰という「日本の屋根」の山並みをあっという間に通過することができます。ただ、乗り物に乗っている間は山塊の中を貫くトンネルを通るだけですから、窓外に見えるのはコンクリートの壁だけ。外の景色はまったく見えません。トンネルをぬけると、テレビのチャンネルを替えるかのようにあっという間に景色が切り替わります。リュックを背に汗を流しながら山道を登らなくても、こんなに手軽に日本アルプスの山並みを楽しめることに今さらではありますが大変な驚きを覚えました。大学時代、山登りに打ち込んだ身としては正直、啞然としました。
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室堂から地中トンネルを走るトロリーバスに乗り、立山連峰の山頂部の下を通って山の反対側にあっという間に抜けたところにあるのが、大観峰と呼ばれる展望台です。標高約2300メートルの高さにあり、赤沢岳をはじめとする後立山連峰から北アルプスまで眺望できます。眼下には、黒部ダムの構造物やダム建設でできた黒部湖が連なる渓谷も見渡すことができます。
戦後の急速な経済成長による電力不足に対応するためとして、関西電力が難所の黒部峡谷に築いた日本最大規模のダムで「くろよん」の愛称がついています。標高は1450メートルほどの山中。高さ186メートルを誇るダムからの放水と大気中に舞い上がる水煙は迫力があり、涼を求める観光客でにぎわっていました。
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レストハウスから少し離れた人気のない山側に「殉職者慰霊碑」という碑がありました。ヘルメットをかぶり、ハンマーやつるはしなどの工具を手にした6人の作業員風の男性のブロンズ像。そのわきには「殉職者」として171人の名前を刻んだ碑がありました。
違和感を覚えたのは「殉職者」の名前がずらりと並ぶだけで、いつ、どこで、なぜ命を奪われることになったのか、その説明がまったくないことでした。
気になって「くろよん」に関する関西電力のホームページも調べてみました。
「世紀の大工事~くろよん建設ヒストリー~」と題した記事では黒部ダムについてこう記しています。
《日本を代表するダムである『くろよん』こと黒部ダム。現在は観光スポットとしても人気ですが、その竣工は困難を極め、戦後の関西電力の社運と、関西地域一帯の命運をかけた一世一代の大プロジェクトでした。いまもなお、日本最大級の規模を誇るこのダムは、工事の記録も人々を惹きつけて止みません。》
社会インフラのはずですが、「関西電力の社運」という言葉が先に出てくることが心に棘のようにひっかかりました。違和感は「くろよん完成」という文章の中にある犠牲者に関する記述で一層膨らみました。
《昭和38(1963)年6月5日、『くろよん』は竣工の日を迎えました。7年の歳月と513億円の工費、延べ1千万人の人手、171名の尊い犠牲により完成。その後、関西のお客さまへの電力供給を始め、日本の経済成長を支えました。『くろよん』に命がけで挑み、難局を見事に乗り越えた使命感や情熱は、『かんでん魂』として今も脈々と受け継がれています。》
これだけ大勢の労働者がいつ、どこで、なぜ死んだのか。説明は一切ありません。
171人もの大勢の労働者の死が企業の美談にしたてられてしまっている。小生はそう感じましたが、いかがでしょうか。
たまたまネット上で見つけた工事関係者と思われる人のブログ記事によると、墜落や落盤で犠牲になった人が多かったようです。
前例のない難工事だったとはいえ、果たして171人もの人命を犠牲にしてまで、このダムを造る必要があったのだろうかと疑問に感じました。
現場での労務管理はいったいどうなっていたのでしょうか。これだけの犠牲者を出したことに対する責任を関西電力の当時の幹部はきちんととったのでしょうか。関電からすれば、工事を受注した建設・土木企業や関連会社の従業員、下請けや孫請けの零細事業所の作業員に過ぎず、まるで「他人事」のように感じているのかも知れません。
大勢の尊い命の犠牲を「使命感」や「魂」という言葉で礼賛する企業風土は、旧日本軍に通じる不気味さを感じます。
社会インフラの工事とはいえ、171人もの犠牲者を出しても致し方のないものとされ、企業も監督機関もまったく責任を問われなかったとしたら、日本はあまりにも人命を軽視した社会としか言えません。
最前線の現場に立つ人々の命を軽視し、企業の発展を支えるための「使い捨ての駒」のようにしか考えていない日本企業、いや、日本の組織の体質は、戦後も何も変わっていないのではないでしょうか。
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