見晴らしのきく小高い山からは、兼六園や金沢城跡がある金沢の中心街をはじめ、遥か遠くに日本海の水平線を見渡すことができます。
石川県金沢市の南東部、金沢城跡からは南方に直線距離で約3・5キロの野田山。金沢の町を見渡す最も高い所に、「加賀百万石」と呼ばれた加賀藩を治めた前田家の代々の藩主の墓所があります。
この野田山一帯には公営や寺院の墓地が広がっています。筆者は2026年9月下旬に訪れましたが、秋の彼岸を迎えて車で墓参りに訪れる人が後を絶えませんでした。
前田家の藩主の墓地からは少し山を下ります。老木に囲まれて視界は開けず、静寂に包まれて人気もない一角に、その石碑はありました。
「尹奉吉義士暗葬之跡」
そう表面に刻まれています。
金沢の町外れの山中にもかかわらず、韓国からの訪問客が時折、追悼のために訪れているようで、かたわらの芳名録には韓国語で名前や住所、そして尹氏へのメッセージが記さされていました。碑の前にはそれほど日が経っていない供花が置かれています。周囲に韓国の国旗である「太極旗」の小旗も飾られています。
韓国では歴史教科書に登場し、知らない人はいないといわれる独立運動の英雄、尹奉吉(ユン・ボンギル)義士が死刑を執行された後、秘密裏に遺体が埋葬されていた場所に建つとされる碑です。
尹奉吉は1908年6月、現韓国の忠清南道礼山で生まれました。
1910年、日本は大韓帝国(朝鮮の当時の国号)を併合し、朝鮮半島を植民地支配します。しかし、植民地経済による収奪や高慢な官憲の圧政に抗議し、朝鮮民族の独立を求めて運動する人は後を絶ちませんでした。抗日独立の訴えが朝鮮半島全域に広まった1919年の「3・1運動」を、尹奉吉は多感な少年期に目にします。
成人した尹奉吉は1930年、「丈夫出家生不還」(もう家に戻ることはない)という書面を家族に残して中国に亡命し、独立運動に身を投じます。
一方、朝鮮半島を植民地支配した日本は、地続きの中国大陸へと征服の野心を押し広げていきます。
1931年9月、「満州事変」で中国東北部へと侵略の手を伸ばした日本軍は翌32年には上海にも武力侵攻します。日本軍の謀略による日本人僧侶殺害事件を口実に、中国国民党軍を攻撃し、占領します。同じ時期、東北部では日本の傀儡政権である「満州国」が誕生していました。
日本が「第1次上海事変」と呼ぶ武力攻撃での勝利を祝おうと、昭和天皇の誕生日である4月29日の天長節に、日本軍は上海の「虹口(ホンキュウ)公園」で戦勝記念式典を開きます。
虹口公園はいま「魯迅公園」と呼ばれ、晩年を上海で暮らした近代中国を代表する作家、魯迅の墓があり、上海市民の憩いの場になっています。ただ、当時は居留日本人の多い地域で、近くに日本軍の拠点施設もありました。
上海では当時、日本の支配下の朝鮮半島から大陸へと亡命した人々が「大韓民国臨時政府」の拠点を設け、民族独立を国内外に訴える活動をしていました。中国の満州や青島を経て上海にたどり着いた尹奉吉は、臨時政府の副主席である独立運動家の金九と出会い、影響を受けます。
臨時政府傘下の特務隊であり、金九が率いる「韓人愛国団」は、日本軍の戦勝記念式典の阻止が日本軍の大陸侵略の妨げとなり、日本の植民地支配の不当さと韓民族の抗議の意思を世界に示す機会になると考え、「爆弾闘争」の敢行を決めます。その実行役となったのが尹奉吉でした。
1932年4月29日。尹奉吉は、壇上の日本軍の上海派遣軍司令官、白川義則大将らをめがけて爆弾を投じました。重傷を負った白川司令官は約1カ月後に死亡し、式典の日本人参列者にも死者が出ました。上海派遣軍の主力を務めた第9師団長の植田謙吉中将や在上海公使の重光葵(後の外相)らも重傷を負いました。
尹奉吉はその場で自殺を図ろうとしたところを取り押さえられ、上海派遣軍の憲兵隊に検挙されます。
上海派遣軍の主力を務めた第9師団は金沢を本拠地としていました。
捕らわれの身となった尹奉吉は、事件から一月も経たない5月25日、上海派遣軍の軍法会議で死刑判決を受けます。さらに半年後の11月20日には上海から大阪城内の陸軍刑務所に護送されます。
そして12月18日、尹奉吉は秘かに9師団の拠点である金沢に列車で移送されたのです。翌19日、金沢市郊外の陸軍工兵作業場で銃殺されました。24歳の若さでした。
尹奉吉が英雄となり、朝鮮の人々の独立運動に火がつくことを恐れたのでしょうか。遺体を人知れず埋めたのが、碑石が建つ野田山の一角でした。
1945年8月15日、日本の敗戦によって植民地朝鮮は「解放」を迎えます。抗日運動の象徴でもある尹奉吉の遺体を祖国へ戻そうという声が上がり、金沢にいた在日の同胞らが協力して、埋葬されているのではと推定される場所を掘り起こしました。
そして1946年3月、旧陸軍墓地と一般共同墓地の間のゴミ捨て場で、13年余り土の中に秘密裏に葬られていた尹奉吉の遺体が見つかったのでした。「独立運動の英雄」の遺骨は祖国へと奉還され、国立墓地に埋葬されています。
尹奉吉の「義挙」から60年となる1992年、埋葬されていた地に碑石が建てられました。また、百数十メートル離れた場所に「尹奉吉義士殉国記念碑」も建立されたのです。
記念碑の前にある解説の銘板には、碑建立の経緯について「(尹奉吉)義士を追慕すると同時に韓日間の不幸であった一時期の歴史を記録として残し、希望に満ちた未来に向けて座標となることを願い」と記されています。
尹奉吉の埋葬地から少し階段をあがると、広大な緑の芝が広がり、「忠霊塔」と刻まれた巨大な碑石が目に入ります。
現在は「石川県戦没者墓苑」となっている緑地は旧日本陸軍の墓地で、忠霊塔の右側には日清戦争、日露戦争、上海事変、満州事変で亡くなった軍人の合葬碑が並んでいます。
金沢を拠点とする第9師団は、日露戦争での旅順攻略戦をはじめ、明治期以降、日本が朝鮮半島での権益を拡大して植民地とし、さらに中国大陸へと侵略していく戦争に出兵し、その度に多くの戦死者を出しました。日本の侵略戦争で命を落とした日本兵らをまつる碑が立ち並ぶそばで、尹奉吉は眠っていたことになります。
日本の敗戦で植民地支配から解放された日を、韓国では「光複節」といいます。同胞たちの手で掘り起こされた尹は、日本の敗戦の翌年、まさに「光複」を迎えたといえます。
尹奉吉の記念碑が金沢市の市有地に建つことから、日本の右翼活動家が「テロリストの碑を撤去せよ」と裁判を起こしました。訴えは退けられましたが、爆弾で日本軍の司令官らを殺傷した尹奉吉を「テロリスト」とする見方に共感する日本人は少なくないでしょう。韓国では「独立運動の英雄」であり、まったく真逆の評価といえるかも知れません。
歴史をどう見るか。朝鮮出兵をした豊臣秀吉もそうですが、尹奉吉も、日本と韓国の歴史認識の差異を気づかせてくれる人物だといえます。
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